反戦平和に生きると決める

俳人・金子兜太氏④

かねこ・とうた 俳人。1919年生まれ。東京帝大経済学部卒、日本銀行に入行。戦後すぐに労働組合の中心メンバーになり管理職にならずに定年退職。在職中から現代俳句に取り組む。朝日俳壇選者を20年以上務めている。日本芸術院会員。2008年文化功労者。

昭和19(1944)年3月、南方のミクロネシア・トラック島に主計中尉として配属されました。前年夏に東大を繰り上げ卒業して、日銀に3日間だけ勤め、海軍経理学校で訓練を受けた速成士官です。部隊は海軍施設部という土建部隊で、そのほとんどが軍属の工員、しかも大方が訳ありの荒くればかりで、ほかに囚人だけの部隊も含まれていました。

 トラック島には当時4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいのはずです。しかも私が着任した年の7月にサイパンが陥落して日本との補給路が断たれたため、物資が来なくなった。食料がなくて、餓死や病死する者がたくさんいました。

軍隊というのは階級社会です。その中でも軍属は最下級で、すべての点で最低の扱いでした。自給自足の食料も、兵隊が優先されます。ですから腹をすかした工員の中には、少々危険な食べ物でも口にしてしまうのがいる。南洋ホウレン草と呼んでいた雑草があって、少量だけを煮炊きしていました。しかし大量に食べると猛烈な下痢を引き起こします。それを知っていながら我慢できずに食って脱水症状で死んでいく。そんな無残な死を日常的に見ました。まさに「非業の死者」です。

人が本当に自由に生きられる社会を実現したい

そうやって死んでいくのは私の部下です。私は責任を感じていました。一方で、主計将校ですから食料があとどれくらいあるのかも知っている。このくらい死ねば、ほかの者に食料を回せるとか、そんな計算もしている。自分が薄汚い存在のように思えてなりませんでした。若かっただけに余計にこたえました。

この体験が戦後の私の行動を決めることになります。敗戦後も捕虜として島に1年3カ月間抑留され、船で引き揚げるとき、私の心は決まっていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、せめて非業の死者たちに報いようと。日銀に復職して組合活動にかかわったのも、その決心の表れです。反戦平和に生きるということは、この時代では組合活動とほぼ同じ意味でした。

反戦平和の基礎には、人が本当に自由に生きられる社会を実現したいという理想がありました。組合活動は3年で離れましたが、その理想は心の中でずっと持ち続けています。「自由を求めたい」。その理想があったからこそ、組織で浮いた存在になっても気にならなかったし、この年齢になっても気力がなえることなく創作を続けられるのではないかと考えています。

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