プロ野球を選ばなかった男が歩んだ激動の道 小さな大投手・山中正竹は球界の第一人者に

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1994年、山中は母校の法政大学の野球部監督に就任し、工学部教授をつとめながら、2002年まで9年間指揮をとった。18シーズンのうち、7度のリーグ優勝を飾るなど、黄金時代を築いた。稲葉篤紀(元ヤクルトスワローズなど)をはじめ、数多くの選手をプロ野球に送り込んだ。

その後、一度も関わることのなかったプロ野球の世界に足を踏み入れることになった。

「横浜ベイスターズをTBSが買収することになり、私に球団経営にかかわってほしいという要請が来ました。私の仕事ではないと思い、はじめは断りましたが、オーナーからの熱心な誘いもあって、最終的にはお受けすることになりました」

ずっとアマチュア野球にいた山中にとって、プロ野球は異質な世界だった。直接的に金銭がかかわるだけに、心ない声も聞こえてきた。

「『アマチュアのくせにえらそうだ』とか、『1億円の契約金をもらった』とか、『年俸は何千万円だ』とか、そんな話がバーッと広まりました。待遇に関していえば、それまでの大学教授と同じくらいでした。でも、いくら口で言っても信じてもらえない。おかしな噂だけがひとり歩きしていきました」

プロ野球と時代の荒波に揉まれた山中正竹

山中は反論も言い訳もしなかった。目の前に課題が山積みになっていたからだ。ベイスターズの専務取締役に就任した山中は、プロ野球と時代の荒波にもまれることになる。

2004年はプロ野球にとって、ターニングポイントになった年だった。

1949年から50年以上も球団を保有していた近鉄が身売りを発表。球界再編に向けての機運が高まると、1リーグ制に反対する日本プロ野球選手会が史上初のストライキに踏み切った。結局、近鉄はオリックスに吸収されてオリックス・バファローズになり、楽天が宮城県仙台市を本拠地として、東北楽天ゴールデンイーグルスを創設した。

「いろいろな問題が重なって、大騒ぎになりました。プロとしての注目のされ方については戸惑った部分があります。ファンの数も反響の大きさも想像以上でした。近鉄の身売り、楽天の参入など、本当に激動でしたね」

大学や社会人の監督時代と比べれば、山中はその実力を発揮することができなかった。経験や知見を十分に生かせたかどうか考えると、疑問は残る。事実、そういう批判が山中の耳にも入ってきた。

「7年目にクビになったときには、『プロ野球なんかに行くからだ』と散々言われました。でも、私はそうは思わない。プロの世界に行って勉強させてもらってよかった。プロ野球に行かなければわからなかったことがたくさんあった」

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