マツダが瀬戸際から復活を果たせた根本理由 車種の絞り込みと混流生産が競争力を生んだ
「自動車産業は国の基幹産業」とは言い古された言葉だが、その割に、メーカーごとの戦略や方針は十分に伝えられていない。メディア側もそうしたことを積極的に伝えてこなかった責任があると当事者の一員として思う。
特に昨今、家電メーカーの凋落を背景に「日本の自動車産業も崩壊するのではないか」という焦燥感に満ちた言説を多く目にする。
「日本経済に巨大な影響を与えかねない自動車産業の行方になにかあったらどうするのか」と危機感を持つ気持ちはわからないではないが、判断材料を持たないままいたずらに恐怖に駆られても意味はない。
そこで自動車メーカー各社の戦略がどういうものかを不定期に書いてみたいと考えている。第1弾はマツダを前後編の2回にわたって取り上げたい。
悪夢の5チャネルとフォードの救済
まずはバブル期にマツダが潰れかけた時代を起点として話を始めよう。1989年、マツダはグローバル販売100万台を目標に、お膝元の国内販売5チャネル化計画を打ち出した。複数系列に分かれていた競合メーカーに対抗するため、「マツダ」「アンフィニ」「ユーノス」「オートザム」「オートラマ」と販売店を分け、それぞれに車種を用意した。
「売れないのは販売力が原因」と考えた戦略だったが、これが裏目に出た。
結果論から言えば、時代的に多チャネル販売のメリットが失われ始め、10年後の1990年代末には先行各社がそれまでのやり方を改め、チャネル間の相互乗り入れを具体化し始めるその時期に大勝負に出てしまった。長期展望を読み間違えたうえに、運も悪かった。莫大な投資に冷や水をかけるようにバブルが崩壊する。
多チャネルを成立させるためには、各系列でのラインナップを確保するためのモデル数拡大が必要だ。これを拙速に進めた結果、商品ラインナップは大混乱した。当時筆者は自動車専門誌の編集部にいたが、編集部にもマツダの全車種とその兄弟車関係、さらに取り扱いディーラーの関連性を整理して理解している者がほぼいないようなありさまだった。ブランドイメージの向上を狙った戦略が、むしろブランドイメージの希薄化を招いてしまった。
こんなことでマーケットが反応するはずもなく、マツダは壊滅的な失敗に沈んだ。巨額の損失に対処するべく、リストラと新型車開発の凍結が執行され、「社内の空気は連日お通夜のようだった」と当時を知る人は語る。毎日見知った顔がひとりふたりと欠けていく。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら