明治元年「1868年」とは、どんな年だったのか 新旧が混在する不思議な年に起きたこと
パリで日本語新聞が刊行された
1868年6月、「パリで日本語の新聞が発行された」ことが日本の新聞の記事で紹介されました。「よのうはさ」というタイトルです。発刊したのはレオン・ド・ロニーというフランス人で、日本を訪問したことはありませんが、日本語が自在。福沢諭吉が訪欧した時も接触し、「ロシアの軍艦が対馬を奪ったというが本当?」などと質問します。福沢が否定すると、そのことをすぐパリの新聞で紹介する。その行動力はすごい。
「よのうはさ」の「発行の趣旨」で、ロニーは「日本人は利発で、アジアの他の国はこれに及ばない」としたうえ、知恵を磨かなければ「下和のあら玉と同じ」、他国のまねばかりでは「くぐまりゆく」……。独特な(?)日本語も交えて、熱く説いています。
「戦争の時、敵味方の区別なくけが人を介抱する赤十字が、スイスで生まれヨーロッパに広がっている」「カラー写真が研究されているが、暗いところに置かないと色が消えてしまう。工夫をして青は色が残るようになった」などの最新ニュースが載っています。購読料は年間30号で「三両一朱」。送金すれば船便で届けるとPRしています。日本人にパリ発の情報をいち早く伝えようとしていたようです。
残念ながらこの新聞は1号限りで終わってしまいましたが、『明治のジャーナリズム精神』(秋山勇造著)は、ロニーと交わった福沢、福地源一郎、栗本鋤雲、成島柳北といった旧幕臣がのちに『時事新報』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』を主宰し、日本のジャーナリズムの先導者になったことをとらえ、「因縁ともいうべきものが感じられる」と書いています。
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