66歳、「物書き」をトコトン極める男の稼ぎ方 職歴40年、盤石な道よりも刺激を選んだ

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自殺未遂の患者に話しかけるには毎回勇気がいった。しかし、話しだしたら「なれなれしくしたほうがいいか、きちんとしたほうがいいかはすぐわかる。そういう才能はあるのかもしれません」という(筆者撮影)

「集中治療室で医者になんで自分の腹を刺したのか淡々と話しているとき、突然号泣して。『死ぬしかないと思った。だけど、もう絶対やらない』って医者の手を握りしめたんですよ。その場にいて、あ、これは本当に繰り返さないんだろうなと思えて。同時に、自殺のとらえ方について疑問も生じたんですよ。それまでは『自ら死にたいっていう人はわざわざ助けなくてもいいんじゃないの?』と思っていたんですけど、どうも本当に死にたくて自殺図っているんじゃないらしいと。なら、本格的に見てみようかなとなりました」

僕はずっと人間のクズって言われていました(笑)

決死で自傷して生還した約20人に丹念に話を聞き込み、『自殺―生き残りの証言』(文藝春秋)を上梓したのは1995年のこと。当事者の口から語られる、自殺に踏み切る際の衝動性の大きさや心の揺らぎが話題を呼び、こちらもヒットを記録する。

『自殺―生き残りの証言』。極力感情を入れずに、「写真を撮ったみたいに文章にしていく」ことを意識して書いたという(筆者撮影)

このとき年齢は44歳で、キャリアは15年強。年収は1000万円を優に超え、2000万円台に乗ったときもあった。見事な成功譚といえる。ただ一方で、自由すぎる職歴と取材スタイルはまるで単身者と錯覚してしまう。家族とはどう付き合っていたのだろうか。

実家からの目は温かいものではなかったという。

「父親は絵に描いたようなサラリーマンで、きちっとした社会人であるべきと考えるタイプだったから、僕はずっと人間のクズって言われていました(笑)」

ある日たまたま実家に寄ったときに父が「隆、まだ就職決まらないんだよ」と電話口で祖母に愚痴っていたのを聞いてしまったことがある。フリーライターは職業とすら思われていなかった。強引な就職の斡旋などはなかったが、生き方を肯定されたのは何冊も著作を出したずっと後のことになる。

妻は一切何も言わなかったという。帰京してブラブラしていたときも救命救急センターに泊まり込んでいたときも自由にさせてくれて、長男が生まれた後も態度は変わらなかった。

「まあ、応援というか、『この人に何言ってもしょうがない』とあきらめていたんだと思います。結婚したときはこんな人間だって思っていなかったんじゃないかな。だって、自分でも自分は普通に大学出て、就職して、会社勤めするもんだと思っていましたから」

妻に対する見方は多少の自嘲や謙遜が入っているのかもしれない。ただ、自分で自分をわかっていなかったのは確かなようだ。「今振り返ればだけど、安定とかは全然考えたことがなかったですね」。

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