34歳でプロ野球を去る男が面した挫折と復活 一度は「戦力外」も味わった八木智哉の半生

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八木智哉(やぎ ともや)/1983年11月7日生まれ、日本航空高校から創価大学を経て希望入団枠制度で北海道日本ハムファイターズに入団。2006年のリーグ優勝と日本一に貢献し、同年のパ・リーグ新人王に選出された。プロ人生は、前途洋々の滑り出しにみえたのだが…(撮影:今井 康一)

まだ、野球がやりたい。自分はやれるはずだ。そんな思いを抱いている八木は、2014年に1回目の戦力外になった時と同じように、またトライアウトを受けるだろう、もしくは、海を渡り、多くの日本人選手が挑戦してきた壁に挑むだろう。誰もがそう思っていたはずだった。

ところが、迎えた2017年11月15日。木枯らしが吹きぬける広島・マツダスタジアム。自分の可能性を信じる男たち、夢を追いかけ続ける男たちが集うトライアウト会場――そこに八木の姿はなかった。

「あなたがやりたいようにやってほしい」――妻の知佳さんが、いつも八木にかけ続けた言葉だった。

知佳さんが、八木の決断に口出しをすることは、これまで一度たりともなかった。2回目の戦力外通告を受けるのと時を同じくして、実は八木は球団サイドからスカウトとしての才能を見出され、球団職員になるオファーを受けることになった。

「まだ野球をやりたいんだ……」

オファーを受けた直後、八木は知佳さんに電話をかけ、事の経緯を伝えていた。しかし、「ボロボロになるまで野球をやりたい」と思っていた八木は、帰宅して知佳さんの顔を見た瞬間、開口一番こう言ったのだった。「正直、まだ野球をやりたいんだ……」

「嫁はいつも通り、『自分がやりたいようにやって』という感じでしたね。僕は『ちょっと考えるわ』って言ったんですけど、当然すぐに答えが出るわけがなくて。考えることは同じなんですよ。でも、決断だけができなかった」

テレビをつけても、まったく頭になど入ってこなかった。音声も映像も、右から左に流れていった。リビングで横になっていても、一向に眠くなどならない。時間だけが、静かに過ぎていった。小さい頃から、野球とともに生きてきた。自分を表現する術が野球だった。

野球選手を辞めるということは、八木という存在そのものを揺るがすほどの大きな出来事なのだ。それだけではない。負ける悔しさ、勝つ喜び。支えてくれる人たちへの感謝。たくさんの想いが、胸をよぎり続けた−−「小さい頃から、野球だけだった」のだから。

その一方で、34歳の八木は、守るべき存在があることを悟っていた。もう野球だけではない。いや、野球以上に、大切なものが、八木の中にはあったのだろう。ほとんど眠らないまま迎えた翌朝、八木は球団に電話をかけた。「ありがたいお話、お受けします」と。

「僕は一度クビになった身。中日はクビになった僕を拾ってくれて、3年間やらせてくれたんです。本当に感謝しているんですよ。続けたい気持ちはあったけれど、潮時かなと。もし僕が独身だったら、100%この話を断って、野球を続けていたでしょうけどね。でも、僕にはなによりも大切な家族がいる。突っ走って、養えるお金がなくなれば家族に苦労をかけることになる。そう思ったら、答えはひとつでした。正直、未練はあったけど、もう今は前しか向いていないですよ」

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