「有楽町高架下センター商店会」で見た景色 暗がりに残る、盛り場の熱

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現在の入り口。20の店名のなかには、「玉菊」「谷ラーメン」「ミルクワンタン」の文字も確認できるが、もうない店の名も残る(撮影:フリート横田)
本記事は『東京人』2017年11月号(10月3日発売)より一部を転載しています(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)

黄色と黒のストライプ柄の工事用フェンスが、アーチを隠すように並ぶ。耐震補強工事のためにその奥にあった飲食店はすでに退去し、今は資材などが置いてあるのみだ。こうすることが必要な処置なんだと頭ではわかっていても、どうにも痛々しい……。有楽町駅を出てすぐ、在来線と新幹線が走る高架橋の下にある「有楽町高架下センター商店会(以下、高架下)」。その一角、東京国際フォーラム前あたりの様子である。

そのなかにあった「玉菊」は、昭和26年に高架下に店を聞き、現在はすぐ脇のアーチに仮店舗を構えて営業を続けている。店主の清宮(きよみや)宏造さんは、大正11年のお生まれながら今日もカクシャクとして店頭に立つ。清宮さんは終戦後、昭和21年に中国大陸から復員し、ヤミ米などを千葉や埼玉からヤミ市へと運ぶ「カツギヤ」をやって糊口をしのいだ。資金を貯めると、「ヤミ市にあった喫茶店を4万円で買ったんだよ。店は2坪もなかったな」。

ヤミ市の人々を集めて生まれた「すし屋横丁」

ヤミ市があったのは、有楽町駅から外堀川(現・東京高速道路)にかけたあたり。ここには都の交通局があったが、戦後焼け跡となりヤミ市ができた。当時は「350軒も店があった」そうだ(500軒とする資料もある)。ところが疎開していた交通局が同地に戻ることになった。そこで昭和23年、駅寄りの土地にヤミ市の人々を集めて生まれたのが、バラック飲み屋街「すし屋横丁(以下、すし横)」である(すし屋だけでなくホルモン屋、バー、食堂、喫茶店、滋養強壮にマムシの生き血を飲ませるヘビ屋などもあったという)。

有楽町高架下センター商店会のすぐ近くで、 仮店舗で営業している「玉菊」。インドマグロに定評がある店なので、刺身と瓶ビールでどうぞ(撮影:フリート横田)

「その後、3度にわけて立ち退きをさせられて。第1回目が『すし横』でな。 銀行の応接室での抽選で123軒 (106軒とする資料もある)が当選して、そこにうちも入れたのよ」。清宮さんは幸運にも横丁内に移りすし屋に転業することができたが、落選組や2回目、3回目の人々はその後、田町、赤羽、鶯谷などに流れ、散り散りになったという。

その「すし横」も、建設予定の東海道新幹線の用地にかかったこともあり、昭和42年に取り壊される。立ち退き交渉が長引き、先に新幹線が開通してしまうという、あべこべな事態になったのだが、最終的に、同じ頃に横丁前に竣工した東京交通会館地下街や、新橋駅前ビル地下街、そしてこの「有楽町高架下商店会」に移っていった(ちなみに「玉菊」は、「すし横」内と高架下に2つの店を持っていた。高架下の店は当初は酒場で、のちにパチンコ店、雀荘、再度酒場になり、その変遷もおもしろい)。

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