雇用が回復しても賃金が上がらない理由 今後の経済政策で重要なことは何か

拡大
縮小

日本企業はさらに、賃金コスト全体の圧縮のために、平均賃金の高い正規雇用から、それが低い非正規雇用への置き換えを積極化させた。就業者に占める非正規雇用の比率は、1990年代前半には20%程度がほぼ維持されていた。しかし、1997年の経済危機以降は、正規雇用の絶対数が減少し、それが非正規に置き換えられていくようになる。そしてそれによって、就業者全体に占める非正規雇用比率は断続的に上昇し続けるようになる。

春闘のベアもまた、1997年以降は一気に形骸化していく。2000年代になると、デフレを背景として、ベアの「見送り」や「停止」が一般化する。そして、リーマン・ショック後の2009年には、遂にベアが完全放棄されるに至るのである。

こうして生じた雇用制度の変化の本質は、要するに企業による賃金コストの圧縮であった。日本企業はこの頃には、単に不況によって販売が減少するだけでなく、デフレによって収益の額自体が縮小する時代に入っていた。そうした状況下では、企業がバブル期以前のようにベアや定期昇給を通じて労働者の名目賃金を年々引き上げ続けるなどは、とうてい不可能であった。

つまり、日本経済は1997年の経済危機以降、名目賃金の下方硬直性というアンカーが失われた、賃金が恒常的に下落し続ける時代に入ったのである。その下落幅は、深刻化していた物価下落をも上回るものであった。そのため、それまでは上昇し続けていた実質賃金も、遂には下落していくことになったのである。

これは、日本ではこの時期以降、単により多くの人々が職を失っただけでなく、運良く職を得た人々も時を経るごとに実質的により貧しくなっていったことを意味する。その責はすべて、先走った消費税増税とデフレ許容的な金融政策という、この時期の政府と日銀による歪んだマクロ経済政策運営に求められるべきである。

実質賃金が上がりにくい景気回復の初期段階

日本の名目賃金は、リーマン・ショック後の2009年には急落したが、その後は少なくとも大きく下がることはなくなった。他方で、実質賃金の方は2014年に急落している。これはしかし、その4月に実施された消費税増税が消費者物価の上昇に直結したからであり、必ずしも経済基調の変化によるものではない。

既述のように、実質賃金は本来、労働生産性の上昇とともに上がるべきものである。しかしながら、景気回復の初期においては、なかなかそれが現実化しない。それは、その段階ではまだ不況の中で拡大した労働の余剰が十分に解消されていないので、名目賃金が下げ止まりはしても、それが上昇に転じるまでには至らないからである。それに対して、物価の方は、総需要の拡大により徐々に上昇し始めることが多い。その場合、実質賃金は上がるのではなくむしろ下がることになる。

しかしながら、この段階で生じる実質賃金低下は、不況の中で生じるそれとはまったく意味が異なる。不況下の実質賃金低下は、1997年以降の日本のように「物価よりも名目賃金の方が大きく下がる」ことによるものである。それに対して、景気回復段階のそれは「名目賃金が物価のようには上がらない」ことによるものである。前者は一般に失業の拡大を伴うのに対して、後者は失業の縮小を伴うのであるから、その性格は正反対である。

アベノミクスの批判者たちはしばしば、それが実質賃金の低下しかもたらさなかったと批判する。確かに、アベノミクスが発動された2013年以降の実質賃金は、2014年の消費税増税の影響はあるにしても、ごく近年までは明らかに低下し続けてきた。

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