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ブランドコンテンツは、企業や団体のブランディングをサポートする東洋経済オンラインの企画広告です。

離島に遊びに行って、そのあまりの情報の少なさに驚き、仲間と有人離島に特化したサイトをわずか半年で創った離島経済新聞社の鯨本あつこ氏。親族には会社員がおらず、最後まで仕事をしていた祖父を見て育った彼女には、自分の裁量で仕事ができる起業は自然のことだった。

日本で初めて購入型のクラウドファンディングサイト「READYFOR?」(レディフォー)を立ち上げ、注目される米良はるか氏。彼女はどうすれば今の環境がもっと楽しくなるのか、どうずれば自分が夢中になれるのかが重要なのだと語る。


鯨本あつこ
(いさもと・あつこ)

1982年大分県日田市出身。『離島経済新聞』『季刊リトケイ』編集長。編集者、イラストレーター、広告ディレクターとして、地方情報誌やビジネス誌の制作に携わった後、2010年にクリエイター仲間と離島経済新聞社を設立。離島以外の活動では編集レーベル「鯨本編緝室」として地域メディアやイベントの編集やプロデュースに携わる。

おじいちゃんも死ぬまで仕事して活き活きしてた
――鯨本あつこさん(離島経済新聞社 代表)

意外に知られていないことだが、国内には6847の離島があり、そのうち人が生活している島は418島ほどしかない。この有人離島に特化した情報サイトとして、2010年秋にスタートしたのが離島経済新聞だ。「離島の情報は探しにくい」と痛感させられたことをきっかけに立ち上げたというメディアは、全国の離島在住者だけでなく、島好きの旅行者から離島出身者まで広く共感を呼び、ついには紙の媒体まで刊行するに至った。離島経済新聞社の社長で編集長をつとめる鯨本(いさもと)あつこさんはつながることで、いかにして新しいメディアをつくりあげたのだろうか。

―――創業のきっかけは?

鯨本 世田谷ものづくり学校(IID)のスクーリング・パッドで一緒に学んだ編集者やデザイナー、アートディレクターと友達になり、そのメンバーでメディアでもつくろうかと話したのが始まりです。ウェブだったらおカネもかからないし、みんなが編集もデザインもできるのでメディアをつくること自体は簡単でした。

離島に目をつけたのは、実際に遊びに行く機会があって、その情報のなさに驚いたからです。私たちは当初、地域の良いものを紹介するサイトでもつくろうかと思っていたのですが、すでにいろんなところがやっている。でも、離島なら誰もやっていないうえに、どの島へ行こうとしても情報が探しやすいとは言えない状態でした。そこで離島情報に特化したメディアをつくろうと考えました。

―――思い付いてから半年で事業をスタートさせています。早いですね。

鯨本 それまで編集やライターの仕事をしていましたが、かねてから受注ではなく自分で何かをつくる仕事をしたいと思っていました。そこで、これを機に会社をつくってしまえと。それでも他の仕事もしながら始めて、死にはしないレベルでギリギリの状態でスタートしました。フリーでしたから、受注でいただく仕事と兼業すればやっていけるので。もともと私の親族にはサラリーマンも公務員もいません。おじいちゃんも死ぬまで仕事をして、活き活きしていた。平日に旅行したり、土日は仕事だったり、すべては自分の裁量次第。そんな家庭に育ったので、働き方の理想もそこにあった。会社をつくるのに、とくに親に驚かれることがなかったのも幸いでした。


大きく儲けようとは思っていない。みんなが困らずに食べていけるくらい稼げればいい

―――なぜウェブだけでなく、紙媒体もつくったのでしょうか?

鯨本 設立半年後に東日本大震災があって、世の中が不安定になるなか事業もはなから軌道にはのるわけではないので、辞めようかという話も出ました。でも、離島のサイトを立ち上げた瞬間から世の中に類似のサイトがなかったので、島の人の反応がすごくよかった。宣伝も最初はツイッターだけで数自体は少なかったものの、すごく熱い反応をいただいたんです。いきなり感謝されるとこちらも後に引けない。もっとちゃんと離島の情報を提供するメディアにならなければと思いました。

そんなとき、取材で小笠原諸島などに行くと、その移動の間はネットもつながらず、きれいな海は気持ちいいから、ノートパソコンを開く気にもなれない(笑)。島ではネットに興味がない人もいるので紙媒体も必要と思い、創業から1年くらいして作り始めました。それが良かったのか、そのあたりから島の人にも「どうやらあの人たちは本気だ」と思っていただけたように感じます。

要は情報を届けたいだけ。もちろんマネタイズできる仕組みを考えなければいけませんが、いかに多くの人に届けられるかという点が大事なのです。今後、紙が大きな力をもつとは思っていません。ただ、各離島に地方紙はあるのですが、各離島間で共通するメディアや、横串で届く情報はない。ほかの島々がどんなことをやっているのかは彼らにとっては役に立つ情報なので、私たちのメディアがその役割を担えればと思っています。

―――あえて経済新聞にしたことでメリットはありましたか?

鯨本 最終的にはメディアは何かしらの目標がないといけません。その意味で、離島の経済に役に立つという私たちのミッションが明確になりました。それに離島に興味がない人でも「経済」とつくと手に取ってもらえるし、離島関連でとりあえず各業界のキーパーソンにも紹介されやすく、そこで仕事になることもあります。

じつは東京や関西は意外と島関連のイベントが多いんです。離島人口は全体で約70万人と一つの県並みの大きさですが、高校がある島が35島しかなく、ほとんどの人が島から離れてしまう。多いところで9割はふるさとの島に戻らない世界です。逆に言えば、本土側に島の縁故者がすごくいるわけです。最初はそのマーケットを想定していなかったのですが、関西、関東、中部にとくに多い。縁故者の方々は観光情報だけではない、私たちの情報を求めているのです。それも3年近く続けてやっとわかってきたことです。途中で辞めていたら、わからなかったでしょうね。

でも、私たちはこの仕事で大きく儲けようとは思っていません。みんなが困らずに食べていけるくらいのおカネを稼げればいい。

最近よく思うのですが、大きな会社の社長でも小さな会社の経営者でもかっこいい人は同じ考え方、感覚を持っています。島の人もかっこいい人は同じです。

島に取材に行って昼間は深くまで話してくれなかった人が夕方6時から深夜2時まで一緒に飲めば、翌日は何でも教えてくれる人に一変してしまう(笑)。私は酒席での会話が好き。そうやって関係がつながっていくことが何よりも面白い。いろんな人に助けていただきながら、私たちはメディアを運営することができています。


米良はるか
(めら・はるか)

1987年生まれ。2010年に慶應義塾大学経済学部を卒業、2012年に慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科修了。大学院在学中の2010年にスタンフォード大学へ留学、帰国後の2011年3月に日本初のクラウドファンディングサービス「READYFOR?」を立ち上げる。「World Economic Forumグローバルシェイパーズ2011」に選出された。

感動する話を聞くと、何かしてあげたくなる
――米良はるかさん(オーマ取締役、「READYFOR?」代表)

誰でも迷い、悩むことはある。彼女もそうだった。日本で初めて購入型のクラウドファンディングサイト「READYFOR?」(レディフォー)を立ち上げ、注目される米良はるかさん。一見華やかな経歴だが、必ずしも一足飛びに起業家になったわけではない。失敗し、励まされ、何度も挑戦を繰り返してきた。米良さんも「自分は何をしたいのか」がわからずに自分の核を探る旅を続けてきた一人なのだ。その結果やっと辿りついたのが「誰もがやりたいことを実行できる世の中にする」ことだった。

購入型クラウドファンディングとは、ネットを通して特定プロジェクトの参加チケットを購入するかたちで資金協力する仕組み。これまでの最高額は「陸前高田市の空っぽの図書室を本でいっぱいにしようプロジェクト」で募った約830万円、協力者は出資の見返りに図書館に好きな本を名前付きで寄贈することもできるというものだった。

まさに不特定多数のつながりが誰かを助けるというソーシャルメディア時代ならではの社会貢献事業だが、設立から3年目でサービス利用者は約3万人(2013年6月末)、流通総額2.2億円にまで成長させた。米良さんはこの事業とどのように出会ったのか?

―――すでに3つの事業の起業に係わっていますね。

米良 大学生のときに松尾豊・東京大学准教授(ウェブと人工知能専攻)の技術を使ったスパイシーの立ち上げに係わりました。その後、4年生のときに、パラリンピックスキーチームの荒井秀樹監督の話を聞いて感動し、彼らのために自分たちが何か貢献できないかと思い、寄附サイトのチアスパ!を立ち上げました。

もともと私は直接本人から感動する話を聞くと、自分に当事者意識が沸いてきて、何かしてあげたい気持ちになるんです。でも、こうした事業は「かわいそうだから応援して」と言っても、多くの人には関係ないことですから、その声がなかなか届かない。やはり参加することが楽しかったり、何らかのインセンティブがあるという仕組みに替えていかないといけない。そこで今までの経験や反省をもとに2011年からREADYFOR?を本格的に始めたのです。

―――企業の勤務経験なしに起業するのは怖くなかったのですか?

米良 大学院1年のときにスタンフォード大に留学する機会があったのですが、あるとき大学の授業に自分と同い年くらいの女の子がスピーカーとして来ていました。彼女は卒業生だったのですが、学生時代に立ち上げたビジネスをグーグルに売却して、今はグーグルのマネジャーをしているという話でした。そのとき、彼女と私の違いは何だろう、どうすればこんな人になれるのか、もしかしたら自分でも目指せるかもしれないと思ったんです。

そのころ、私は起業して会社をどんな形にするのかイメージできず、上場や事業売却という言葉は知っていましたが、自分が本当に起業できるかどうかよくわからなかった。でも、自分に近い立場にある22歳くらいの女の子がゴールを描いて事業を成立させたことがすごく刺激になったんです。


起業しようがしまいがどっちでもいい
問題は自分にとって良い仕事かどうか

―――ソーシャルメディアの浸透も起業に影響した?

米良 その影響は大きいと思います。私もミクシィは高校生、フェイスブックは大学生のころからやっています。とくにフェイスブックでは留学時代の仲間とリアルタイムでコミュニケーションを取り続けられることが楽しかった。自分が取り組むべき課題やトピックもあがってきやすい。友人同士の悩みだけでなく、今何が起こっているのかが世界中からあがってくる。いわば、様々な世界の問題を自分事として考えることができるようになったのです。困っている人がいるなら何かしてあげたいというのが、たくさん目に見えるようになってきた。そうした課題に出会って何かを感じることはこれまでもあったと思いますが、ずっとコミュニケーションをとって、リアルタイムで一緒に何かをやるというのはソーシャル時代ならではだと思います。

―――将来的に今の事業をどう発展させますか?

米良 自分の将来像の話になったとき、ある起業家が「5年後のことを考えて、もしその通りになったらつまんないよね」と言っていました。私も5年前に今の自分を想像していなかったし、これだけ世の中が猛烈なスピードで変わっていく中では、自分の動きもどんどん変わっていくでしょう。もちろん掲げたミッションをクリアすることが私の目標ですが、どんなアプローチで実現するかは今後変わっていくと思います。将来どんな場所に身をおくのかも今決めているわけではありません。

私からすれば、その意味で、起業しようがしまいがどっちでもいい。自分にとって良い仕事ができていれば幸せじゃないかと思います。どうすれば今の環境がもっと楽しくなるのか、どうずれば自分が夢中になれるのかをまずは貫くしかない。

私にとって良い仕事とは、今一歩踏み出せないような人たちにチャンスや環境を与えること。そうした世界をつくるためにも、社会にインパクトを与える。事業として早く確立して、たくさんの人が関与できる場を提供したいと思っています。