「楽して登るな」困難極めた聖地への鉄道計画 鉄道会社目指していた「身延山ロープウェイ」

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免許申請書に添付されていた身延登山鉄道(戦後)の平面図(国立公文書館所蔵)。現在のロープウェイと同様、奥之院思親閣の近くに山頂側の駅を設ける計画だった(筆者撮影)

翌1959年8月には運営会社の身延登山鉄道が設立されたが、ケーブルカーの予定地は地盤が悪く、山崩れも発生した。そのため、地盤が悪い場所でも比較的建設しやすいロープウェイの計画に変更。1963年8月23日に現在の身延山ロープウェイが開業した。一方、ケーブルカーの免許は1961年4月5日に廃止が許可され、身延山を登るケーブルカーは幻に終わった。

以上の経緯は身延登山鉄道の公式ウェブサイトにも記されており、比較的知られた話だ。しかし、身延山では戦後だけでなく、戦前にもケーブルカーやロープウェイの建設が多数計画されていた。

戦前のレジャーブームで計画多数

身延山宝物館学芸員の林是恭さん(久遠寺布教部)や国立公文書館の所蔵文書によると、大正末期の1926年5月25日に「身延登山鉄道」の地方鉄道免許が申請されている。兵庫県や静岡県の起業家が発起人として名を連ねており、現在の身延登山鉄道との関係はないとみられる。

このほか、詳細は不明だが、同年3月頃には静岡県の起業家グループによる「身延登山索道」の計画があったようだし、3年後の1929年10月には「身延登山架空索道」の申請も出ている。複数の起業家グループによる競願になっていたようだ。

また、身延山から南西へ約6kmの七面山には山頂の北東側に久遠寺の敬慎院があり、やはり山麓と敬慎院を結ぶケーブルカーやロープウェイが計画された。1926年頃にはケーブルカーの建設計画があり、1929年頃には「身延七面山旅客索道」の申請もあった。

この頃、寺社参詣は庶民の主要な娯楽で、寺社にアクセスする鉄道路線は参詣客でにぎわっていた。こうしたことから、身延山でもケーブルカーなどの計画が多数立ち上がったのだろう。林さんも「大正時代に起こったレジャーブームによる参詣者増加を受け、参詣者の吸引を名目に時代の流れに押される形で計画がなされたもの」と説明する。

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