観光が好調な小田原、知られざる歴史と文化

「ういろう」の元祖は小田原にある

さて、次に、小田原城の見どころについても触れておきたい。

小田原城は、戦国時代の小田原北条氏の居城であり、江戸時代に入ると、大久保氏、稲葉氏など小田原藩主の居城となった。

小田原城が、現在のような近世城郭として整備されたのは、寛永10(1633)年の大地震による大破後で、寛永12年に予定されている将軍家光の上洛に備え、将軍宿泊所として整備・拡充されたのだ。このときに天守閣・本丸御殿なども建設された。

その後、天守閣は、元禄16(1703)年に発生した元禄地震による倒壊後、再建されるが、明治3年、明治政府に廃城届を提出し、破却された。現在の天守閣は、昭和35年に完成した“復興天守閣”だ。

現在の小田原城址公園は、この復興天守閣を中心に整備されているが、ここだけを見ると「意外と小さな城だな」と思うかもしれない。

しかし、実は小田原城は戦国時代においては、全国でも最大規模の城郭で、城下町は全長9キロメートルにも及ぶ「総構(そうがまえ)」と呼ばれる土塁と堀で囲まれていた。これは、秀吉の小田原攻めに備えて、小田原北条氏により構築されたものだ。

「小峯御鐘ノ台の大堀切」は必見

「小峯御鐘ノ台大堀切」を見れば、戦国時代の小田原城の壮大さが実感できる(筆者撮影)

総構の遺構は、市内数カ所で見ることができるが、中でも、壮大な景観を現出しているのが、小峯御鐘ノ台の大堀切だ。この場所は西側からの敵の侵入を防ぐ要所であり、3つある堀のうちの東堀は、堀幅が20~30メートル、深さは土塁の頂上から12メートルもあり、空堀としては、全国的にも最大規模のものだという。

総構について、小田原城に詳しい「小田原城郭研究会」の山本篤志氏は、次のように話す。

「小田原合戦で、総構の様子を見た豊臣方の武将たちは、“これをまねしない手はない”と、国元に帰ると自分の城にも外郭を造りました。京都に秀吉が造った“御土居”もこれにあたります。

総構ができることで、城下町に人々が安心して住めるようになった結果、各地の城下町がより発展し、現在につながる各地の主要都市になっています。小田原があったからこそ、今の日本の経済があると言っても過言ではないと私は考えています」

このほか、小田原には、秀吉が小田原城攻略のために築いた「石垣山一夜城」の史跡などもある。

山本氏によれば、今まで、城跡の管理には、市の文化財課、観光課、みどり公園課などの部署が携わり、連携がうまくいっていなかった部分があるが、今年度は、一元的に管理する部署が立ち上がった。

今後は、樹木伐採などの整備が進み、さまざまな史跡がより見やすい状態になるのではないかと期待しているという。

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