大量生産品が時に「職人の一品」を超えるとき 時計も寿司も大事なのはあくまで全体だ

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時計も同じである。外装、またはムーブメントのどちらかが良いものは、感心するし面白いと思うが、喜んでお金を払う気にはなれない。一部の独立時計師がそうだろう。中身は卓越しているが、全体を見るとさっぱり時計らしくないのだ。一例が、高名なジョージ・ダニエルズの弟子であるロジャー・スミスだろう。彼の時計はあちこちで賞賛されているが、何度見ても、言われるほど良いとは思えなかった。自製のムーブメントに力が入りすぎて、全体に、つまりトータルには、気が回っていないのである。一方で、最近セイコーがリリースした「シャリオ」は、定価も2万円弱、中身もありふれたクオーツだが、久々の傑作だと思った。職人が気合いを入れて作ったものよりも、大量生産品のほうが良かったりするのは、スーパーの折り詰め寿司に同じである。大事なのはネタでもシャリでもなく、あくまで全体なのだ。

かといって、はじめから全体を意識すると、できあがりはつまらなくなる。平凡なものは、常にコストパフォーマンスでしか測られず、それもまた、寿司に同じではないか。

銀座にある行きつけの寿司屋の大将は、まだ20代だったと記憶している。若い人が握るだけあって、彼の握る寿司はアタリが強く、勢いで食べさせるところがあった。確かに寿司はスピードが必要な食べ物で、ぐずぐずするとうまくない。パッと握った寿司を乾かぬうちに口に放り込むと、ネタやシャリの状態がどうであれ、不思議と納得させられる。

最初から腰がないようでは味わいも出てこない

時計も同じで、新興メーカーの最初のプロダクトには、えも言われぬ勢いがある。F.P.ジュルヌ、フランク ミュラー、モリッツ・グロスマン、ローラン・フェリエ、ハジメアサオカなどが好例だろうか。もっとも成長がなければ飽きてしまうが、若き大将の寿司屋は、F.P.ジュルヌやハジメアサオカ同様、行くたびに熟成を感じさせる。近年は勢いに加えてまとまりも備わりつつあって、うまく化けた独立時計師のようなものだろう、と思う。時計も寿司も、最初はまとまりがないぐらいでいい。そのうちこなれて、全体が整ってくる。

では寿司における理想はなんだろうか、と最近考える。賛成する人は少ないだろうが、ぐずぐずのシャリに、とろとろのネタを載せた状態ではないか。噛み応えもなにもあったもんじゃないが、ネタとシャリが限りなく不可分になった状態こそが、ひとつの望ましい形と思ったりする。時計で言うと、たとえば適度に使い込んだパテック フィリップの「カラトラバ」だろうか。新品だとまだまだ硬い。しかし使ってケースやストラップがクタクタになると、えも言われぬまとまりが出てくる。ただし、最初から全体を意識すると面白くなくなるのと同じで、最初からクタクタだとサマにならない。もともとキリっとした造型を持つカラトラバだからこそ、こなれた感じが映えるのであって、寿司も時計も、あるいは人も、最初から腰がないようでは味わいも出てこない。

もっとも、食や趣味の嗜好なんてどう変わるか分からない。年を取ったら、ネタとシャリがばらけた勢いだけの寿司を食べ、勢いだけの時計に感心しながら腕に巻いているかもしれない。年を取った人が、あえて派手なスポーツウォッチを着けたがる気持ちを、最近少しだけ分かるようになった。

(文:広田雅将)

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