この報道の翌日、埼玉県の東京事務所は国際興業の企画部長に対し、聞き取り調査を行ったようで、その報告書が埼玉県立文書館に残されていた。
それによると、国際興業が検討していた鉄道のルートは、大宮駅西口~桜木町~小村田~与野本町~大戸~別所~県庁前~大里~戸田美女木~戸田橋~蓮根~常盤台~大山~池袋駅西口。ルートが少し異なるものの、現在の埼京線に相当する路線を考えていたようだ。
このうち、大宮駅西口~桜木町間と別所~県庁前~大里間、蓮根~常盤台~大山~池袋駅西口間を地下で建設し、それ以外の区間は地上に線路を敷設(道路との交差は全て立体交差)。工事費は当時の金額で1km当たり約9億円、総工費は207億円としていた。
「調査はしたが…」慌てふためく
ただ、国際興業は埼玉県の調査に対し「昨年(1960年)6月から専門家により図面及び実地調査を行ったことは事実」としつつ、「今般の報道は会社としての正式報道ではない。余り突然のことで発表になって初めて知り、掲載紙の買取り措置を講じた程である」などと述べており、どこか慌てふためいている様子がうかがえる。
さらに、資金調達などの問題から「運輸省に対し申請するか決定出来ない。現在のところ、会社としては方針未決定」ともしており、「申請書が出されるばかり」とした埼玉新聞の報道とは様相が異なる。どうも、申請の準備が整っていなかったようだ。
そもそも、国際興業の鉄道構想が明らかになる前から、埼玉県は別の方法で鉄道を整備することを考えていた。
東京と大宮を結ぶ東北本線(宇都宮線)は、昭和の早い時期に複々線化され、旅客列車と貨物列車の走行線路が分離された。しかし、旅客列車用の線路は東北・上信越方面に向かう長距離列車と、宇都宮方面や高崎方面に向かう中距離普通電車(中電)、そして大船~東京~大宮間を結ぶ京浜東北線電車の3系統が共用。戦後は高度経済成長に伴う利用者の増加で輸送力が不足し、ラッシュ時の混雑は尋常ならざるものとなった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら