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2018/6/12

ホンダジェットの革新的イノベーションの秘密
事業化の道をこじ開けて戦略的に価値創造に挑む Vol.2
ゴーサインはなくても
事業化を見越して
すべての意思決定をする

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業務命令で携わることになった飛行機開発。藤野氏は本場アメリカに渡り、理論だけでなく実際に経験を積む中で、新しい視点や直観力、洞察力を磨いていく。それが結果として、次のイノベーションのインスピレーションの源泉となっていった。日本とアメリカを往復する生活。だが、プロジェクトはいったん、終わりを迎える。しかし……。

飛行試験を終え、
プロジェクトはいったん終了に

米倉1号機が完成するまでに、どのくらいの期間がかかったのでしょうか。

藤野最初のプロジェクトは、1年くらいで設計、製作して飛行試験を始め、おおよそ2年ほどで終わりました。1号機は4人くらいが乗れる単発のターボプロップのプロペラ機でした。2号機は1987年頃から設計を始め、93年に初飛行、95年にすべての飛行試験を終えてプロジェクトを終了しました。その後、メンバーは日本に帰ることになり、飛行機に携わっていたチームメンバーも半分の10人程度にまで減らされ、飛行機の研究はそろそろやめようというような状況になったのです。

米倉えーっ、プロジェクトが終わってしまう。それで、藤野さんはどうされたのですか。

藤野1997年に、当時の社長の川本さんとお会いする機会がありました。飛行機を始めて10年くらいが経っていて、私自身飛行機の設計について多くの知識や経験を持つようになっていて、かなりいい飛行機を創れるのではないかと感じていました。それで、新しいコンセプトの飛行機を創れば、世の中を変えることができるというような話を30分くらいしたところ、川本さんに「そんなにやりたいなら、経営会議に提案したらどうだ」と言われました。それから急いで資料を準備して、約2カ月後の経営会議で提案したのが、今のホンダジェットです。

米倉1997年だと、まだアメリカに会社もない頃ですよね。研究所の分所のような体制で続けたのですか。

藤野ミシシッピからは、もうすべて引き揚げていたので、和光市の技術研究所の中でコンセプトと部品をつくりました。

米倉よく情報が漏れなかったですね。そういう開発の話はすぐに噂になったりしますが。

藤野研究に携わるメンバーも少なく、社内でもまったく注目されていなかったので、あまり知られていなかったと思います。1997年に私はプロジェクトリーダーになり、飛行機(今のホンダジェット)のコンセプトや形を決め、風洞模型をつくり、栃木やボーイングの風洞施設を借りて風洞試験を行いました。最初の2年間は、このまったく新しい形の飛行機のコンセプトを理論や実験で実証することに集中しました。1999年に実機を製作する社内承認を得たので、アメリカ全土の都市を訪問して、どこにホンダの飛行機研究の拠点を置くべきかといった調査をしました。最終的にノースカロライナを選び、そこで研究をスタートさせたのが2000年ごろです。

戦略的に
事業化への道筋を探った

米倉アメリカでは西海岸のシアトルなどが航空産業の中心のように思いますが、ノースカロライナを選んだ理由はどこにあったのですか。

藤野最初から、事業化が私の目的でした。社内では禁句とされていましたが、私は自分で設計した飛行機を絶対に商品として売りたかった。そこで、もしビジネスジェットを売って事業を行うとすれば、どこがいいかと純粋に考えました。ビジネスジェットの主な市場はアメリカとヨーロッパです。両方の地域をカバーする拠点は東海岸でないといけない。東海岸であれば、部品を発送しても1日でヨーロッパに届きますから。そのように、事業化したときに成功できる場所を最優先に考えました。

米倉では、藤野さんとしては実験ではなく、まさにビジネスとして発想されていたわけですね。イノベーションになる「翼の上にエンジンを置く」というアイデアが出てきたのは、いつ頃ですか。

藤野1996年から97年ごろです。今見てみると、当時のスケッチは、今のホンダジェットと非常に近いコンセプトで描かれていて、ほとんど変わっていません。当時からこのコンセプトでいけるのではないかと直感的に思っていました。

米倉1号機、2号機はそこまで革新的ではなかったのですか。

藤野それぞれで野心的な試みはしています。たとえば、2号機は機体構造全体にカーボン(炭素繊維)を使った、オールコンポジット(複合材)のビジネスジェット機でした。しかし、商品としての技術的長所や短所をトータルで考えると、残念ながら2号機では売り物にならなかった。コスト的にもそうですし、性能も出てはいなかったのです。

米倉カーボンよりも他の素材のほうがいいということですか。

藤野機体構造全部をカーボンにすると必ずしも効率的ではなく、たとえば主翼などは逆に重量が重くなってしまうのです。材料レベルの特性だけで考えれば軽量化できると一般には思われるかもしれませんが、全機レベルでは必ずしも軽量化とはならないし、コストも高くなってしまう。実際に商品として売り物にするには、構造材料は適材適所で使わなくてはならないことをすでに把握していました。

米倉なるほど、研究拠点の場所だけでなく、すべてにおいて事業化を意識していたのですね。

藤野そして、次のステップとして2001年、02年、03年と続けて学会に技術論文を発表しました。初飛行は2003年でしたが、そのときには必ず一般の人たちの目に触れます。何の説明もなく、まったく新しい形状の機体を飛ばせば、知らない人からは「ホンダは無知だから、あんな形の飛行機をつくった」と言われてしまい、反論すらできないのではないかという心配がありました。どれほど良い飛行機でも、最初の評判が悪いと、次の段階に進めません。それで学会で専門家を押さえておこうと、技術論文を次々に出しておいたのです。幸い、論文の評価が高かったため、2003年の初飛行のときは驚くほど好反応で、ホンダジェットは最先端の飛行機だと多くの方から言っていただけました。やはり、正面から学会を攻めておいたことは良かったと思います。

米ノースカロライナ州グリーンズボロにあるホンダ エアクラフト カンパニーの本社

大きなプロジェクトには
冷静な戦略が!

米倉驚きました。ものすごい戦略家ですね(笑)。周囲の状況を的確に読んで、何をやるのかを考える。

藤野こういう大きなプロジェクトをやるときには、社内外のいろいろな人を説得しなくてはなりませんし、理解してもらわないといけません。よく社内の会議で、その場で必死に説得しようとして、理論的に成り立っておらず、しかも感情的になってしまい、逆に説得しきれない人を見かけますが、そういうことではプロジェクトを成功させることはできません。

  私は学生時代に卓球をやっていました。卓球の試合は1本だけで決めるのではなく、このボールを見せておくと、次のボールが生きるというように、ゲームを組み立てるのです。ビジネスにも似ているところがあって、最終目標を定めて何を説得するかを決めたら、相手が何を考えるか、何を聞きたいかと、相手の思考プロセスをつねに考えて、一つひとつステップを踏みながら、進めていくことが重要だと思います。

米倉小さいときからそうやって戦略的に考えて実行してきたのですか。

藤野自分で言うのも何ですが、小学校のときは工作がとても得意で、将来は物を設計するエンジニアになりたいと思っていました。ただ、弘前では卓球がとても盛んだったので、中学校に入ると卓球一筋の生活となって、授業中も卓球のことばかり考えていました(笑)。

  でも、それはそれですごく良い経験だったと思います。今思い返してみると、卓球の世界というのは、現在の技術競争の世界、またビジネスの世界と結構、共通するところがあると感じることもあるからです。現在は、卓球は中国がとても強く、世界を引き離しています。その理由に中国の(卓球の)技術の発想法があると思います。日本人は一般的にルールを解釈して厳守しながら、いわゆる正攻法で(スピードやスピン、フットワークなどを向上させて)勝負しようとします。いわゆる現状の技術の延長線上での向上や改善です。一方、中国では、ルールをいろいろな観点から解釈して、根本的にまったく発想の違うことをやってくる。

  だいぶ前の話になりますが、一例を挙げると、私が中学生の頃の日本ではラバーの摩擦力や反発力、また品質を上げてボールのスピンやスピードをいかに上げるかに重点を置いていました。いわゆる正攻法ですが、卓球としての大きな概念は既存の技術の延長線上にある。しかし中国では摩擦力のあるラバーと、逆にまったく摩擦力のないラバーをそれぞれラケットの片面ずつに張り、ボールを打つときにラケットを回転させて、どちらのラバーで打ったかをわからないようにする。すなわち一見同じフォームに見えても、まったく球質の異なる切れたボールと切れないボールが来て、相手のボールの回転が読めないのです。それまで、当時の日本の選手が考えていなかったような発想で、特殊な技術を使う中国選手が突然試合に現れる。今でいうと技術のイノベーションのようなものかもしれません。

米倉それまでのやり方では通用しなくなるわけですね。まさに、破壊的イノベーションですね。ちなみに当時、ラバーの摩擦力は同じにせよという規則はあったのですか。

藤野そういうのはなかったです。ですから中国では逆の発想、すなわちラバーの摩擦力を逆にまったくなくすという逆転の発想も視野に入っていたのです。現在はさらに進化して違う技術のラバーも次々と生み出されて使われています。

米倉広義にルールを解釈すれば、当時の中国のようにまったく新しい発想もあったのですね。しかし、日本ではスピンの威力を上げること、すなわち、それが正当な技術だと思い込んでいた、と。

藤野そうだと思います。でもその背景にはもっと深い理由がありました。実は1960年代以降には一時期「卓球日本」と呼ばれるくらい、日本の卓球が世界で非常に強かったことがあります。ですから、日本国内で勝つことは、イコール世界で勝つことだというくらいのレベルにまでなっていた。だから、国内で戦って優勝することに選手の意識が向いていました。すなわちある意味では内向きだったのです。しばらくの間はそれでも良かったが、世界で起こっていること、進化していることには必ずしも注意が向いておらず、中長期的に見ると、結果的に世界の競争から取り残されることになった。これは、産業界にも言えることで、世界の競争で後れるときの一つのパターンです。

米倉残念ながら、今の日本の状況と似ていますね。

※本記事は『一橋ビジネスレビュー』2018年春号に掲載の記事をもとに作成したものです。

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