ホンダジェットの革新的イノベーションの秘密
事業化の道をこじ開けて戦略的に価値創造に挑む Vol.1
ゼロから立ち上げて
全体が見える仕事がしたい
小型ビジネスジェットを革新し、世界で高い評価を受けているホンダジェット。創業から30年以上を経た1986年に航空機の研究に着手して以来、さまざまなトライ&エラーを繰り返しながら、業界の常識を覆す新しいモビリティの世界を切り開いてきた。その開発過程では、どのようなイノベーションがなされたのか。研究開発から事業化までを主導してきたホンダ エアクラフト カンパニー社長兼CEOの藤野道格氏に、一橋大学イノベーション研究センター特任教授の米倉誠一郎氏が迫った。
なぜ飛行機開発を
始めることになったのか
米倉小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」のニュースが報じられたときに、「ああ、ついにホンダが戻ってきたな!」と感じました。今日はその開発経緯について、藤野道格社長にお聞きしたいと思います。藤野さんがホンダに入社されたのは1984年ですね。大学では航空学科で学ばれたのに、なぜ自動車メーカーだったのですか。
藤野航空学科を選んだのは、空気力学や制御、構造力学など総合的な技術を学べるからで、いろいろなことに興味があったのです。しかし就職先となると、日本の航空機産業は基本的にほかの人が設計した物の一部分をつくることが中心であり、やはり私としては、ゼロからコンセプトを考えて設計し、製造、販売までやって、事業全体に自分の考えや意思を入れて実現できるのは、日本では自動車産業だと思いました。
米倉自動車メーカーの中で、なぜホンダを選んだのですか。
藤野会社見学に行ったときに、若い人にもどんどん仕事を任せてくれると聞いて、とても魅力を感じました。研究室の恩師からも、「大企業に行ったら、藤野の能力の10%しか使わないで一生が終わるぞ。できるだけ小さい企業で、全部自分でやれるようなところが向いている」と言われました。
米倉その言葉を最近の学生たちにも聞かせたいですね(笑)。「寄らば大樹の陰」で、企業は大きければいいと思っていますから。
藤野ホンダに入社する人はたいてい「エンジンをつくりたい」という志望理由が多いですが、私はスポーツカーのコンセプトを考えるところから生産までやりたいと思っていたので、「車体系をやりたいです」と言うと、風変わりに思われたようです。それで入社後は車体を担当したのですが、3年目にホンダが飛行機を始めるということになって、埼玉県和光市にある本田技術研究所に行くように言われたのです。ホンダにとってはまったく新しい分野で、調査や研究だけで終わる可能性もあったので、自分は車で勝負したいと、一度はお断りしました。けれども、業務命令で行くことになったのです。そのときに集められたのは10人弱で、ほとんどが航空学科出身でした。
米倉ホンダの飛行機のプロジェクトは30年にも及ぶことになりますね。1986年の時点で、なぜ急に飛行機開発を始めることになったのですか。
藤野当時は、いわゆる中央研究所ブームで、基礎研究を行うのがひとつのトレンドでもありました。また当時は、長期的な視野で会社を永続的に発展させていくためには、人材を含め長期的な投資をしていかなくてはならないとホンダは考えていました。基礎研究とは言っていましたが、研究テーマは実際の商品につながるような、飛行機、ロボット、超軽量車、自動運転などかなり具体的なテーマが含まれていました。
1グラムの差で違いを
見分ける直観力を磨く
米倉当時の川本信彦社長も飛行機がお好きだったと聞いていますが、この基礎研究所の1本の柱として飛行機に本気で取り組もうとしていたのですね。
藤野飛行機をつくることは本気だったと思いますが、事業化についてはわかりません。
米倉その後、アメリカのミシシッピの大学に付属する飛行研究所に行き、そこからいろいろな人、そして恩師にも出会うわけですね。それは、どのようなところでしたか。
藤野大学内にある飛行研究所は、もともと航空機の先端的な層流技術について、実機をつくり、それを飛ばして実証することを目的として設立されました。「アメリカで最も進んだ飛行制御技術を学んでこい」と言われて赴任しましたが、実際に行ってみるとハンガー(格納庫)があるだけ。コンピュータもない。当時はCAD(設計支援ツール)への変遷期だったので、製図版を廃却して、コンピュータを買ってきて研究所内にCADシステムを導入し、セットアップするところから始まりました。また、自分で計算し、自分で図面を書き、そして自分でその部品をつくって、自分たちで組み立てるということをすべて手作業でやりました。
米倉後になれば、そういう経験はすべて役に立つわけですが、初めて行かれたときには驚いたでしょうね。
藤野高校生の頃に見たアメリカ映画のとおりで、本当に田舎町でした(笑)。英語は南部なまりが強くて聞き取れないし、現地の人々のリズムも考えていることも違う。自分の中で描いていたアメリカのイメージとまったく違いました。ニューヨークやロサンゼルスだけがアメリカではない。さまざまな価値観やダイバーシティ(多様性)があることが実感としてわかりました。そういう極端なアメリカの田舎で生活した経験は、後にアメリカで会社を立ち上げ、多様な人たちをマネジメントするうえでとても意味のある経験だったと思います。
米倉その研究所にはどのくらいおられたのですか。
藤野1986年の夏ごろから約1年間駐在し、その後はずっと、アメリカと日本にそれぞれ半年間くらい滞在して仕事をしていました。
米倉そこで手作業で飛行機づくりをすることで、部品の重さがわかるまでになったと伺っています。
藤野1グラムくらいの差でもわかります。部品を自分で見たり触ったりして直感的に「これはどこかおかしい」とわかることは、飛行機を設計する上で意外と知られていないかもしれませんが、とても大切なことなのです。
米倉そうした経験の蓄積は、経営学の世界では「暗黙知」と言われますが、経験の質量に依存することが大きいですね。
藤野 道格ホンダ エアクラフト カンパニー社長兼CEO
1960年青森県生まれ。84年東京大学工学部航空学科卒業後、本田技研工業入社。86年から航空機の研究開発に携わり、米ミシシッピ州立大学のラスペット飛行研究所にて実験機の試作を行う。ホンダジェットのコンセプトスケッチを描き、97年よりプロジェクトリーダー。2006年ホンダ エアクラフト カンパニー社長兼CEO就任。現在、本田技研工業常務執行役員を兼務。これまで「日本イノベーター大賞」や「グッドデザイン賞金賞」を受賞。アメリカ航空宇宙学会「エアクラフトデザインアワード」、アメリカの学術団体SAE「ケリー・ジョンソン賞」など航空業界における数々の栄誉ある賞を日本人として初めて受賞。
経験の裏打ちがないと
判断を間違える
藤野学生時代に勉強したのは理論(セオリー)が中心でしたが、アメリカで有名な飛行機設計者に会って話をすると、「experience」「empirical formula」という言葉がよく出てきます。最初のうちはなぜ「経験」ということを強調するのかと不思議でしたが、次第に、テキストブックで学ぶ理論だけでなく、自分で実際に経験して得られた実践的知識や物理的現象の本質的理解は、飛行機全体の設計プロセスにおいて多種多様なことを判断するうえで、非常に重要であると実感するようになりました。そして飛行機産業のような複雑で高度な産業においては、そのような理論や経験の積み重ねを経て、イノベーションに対する直観力、洞察力も磨かれるのだと思います。将棋でも基本的な定跡を知った上で、新しいものをクリエートする。それと同じです。
米倉確かに私も一流の将棋棋士と対談した際に、定跡だけ積み重ねても、最後の勝負にはならないと話していました。最後は、盤面がきれいだという右脳的感覚で判断するのだ、と。
藤野そうですね。理論の理解とともに実際の経験のようなものはやはり持っていないと、飛行機開発では重要な局面で判断を間違えることもあると思います。自分自身で実際に飛行機で飛んで怖い思いをしたり、自分で試験をしてどこかおかしいと思ったりした経験があれば、飛行機を設計、開発するときにまったく違う視点が持てるのです。さらにそのような経験は、無意識であっても自身の思考プロセスの重要なバックグラウンドとなって、直観力や洞察力が研ぎ澄まされていく。そして、それが次のイノベーションへのインスピレーションとして湧いてくるのではないかと思います。現在は、最初からコンピュータで飛行機を設計する時代になったので、アメリカの航空業界においても、自分の手で飛行機をつくって飛ばすというところから経験をしてきた人は少なくなってきました。ある意味、私が経験してきたことは、アメリカの100年の飛行機の歴史、言い換えれば手作りの飛行機から始まって、最新の高度なシミュレーションによる飛行機設計までを、この30年の中で凝縮して経験してきたとも言えると思います。そして、それが今につながっている気がします。
米倉そこで得たものは大きな資産ですね。ミシシッピでの経験の後に、すぐに今のホンダエアクラフトに移られたのでしょうか。
藤野いいえ、ホンダ エアクラフト カンパニーの設立は、私が飛行機開発に携わってから20年後の2006年です。1987年時点では、ミシシッピ大学との共同研究として、建屋を貸してもらい、アメリカの研究所を通して部品を発注するなどしていました。ただし基本的には、日本の技術研究所が予算も人も出していて、初めは5人ほど、多いときには20~30人が日本からアメリカに駐在員として勤務していました。
米倉では、飛行機はすべて、アメリカでつくったのですか。
藤野1号機は、私がアメリカで設計して製作、飛行試験まで行いました。2号機は、日本で設計し、アメリカで製作、飛行試験を行うというように分担していました。私は、前述したように半年ずつアメリカと日本を行ったり来たりしてプロジェクトを進めていました。
※本記事は『一橋ビジネスレビュー』2018年春号に掲載の記事をもとに作成したものです。