「何事も何事も美濃守このごとく候間心安かるべく候、内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、御為に悪しき事はあるべからず候」
(何事につけても私が同じ気持ちでいますので、どうかご安心なさってください。内々のことについては宗易〔千利休〕が、表立った公的なことについては私が気を配っております。あなたにとって悪いようなことは決して起こらないでしょう)
宗麟の来訪より前から九州征伐を視野に入れていた秀吉だが、その間に家康に背後を突かれてはかなわない。そのため、秀吉は家康に上洛を促し、自分の臣下になるように働きかけていた。それでも、家康はなかなか応じてくれなかった。
家康からすれば、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の要請に応じて、次男の於義丸(おぎまる、のちの結城秀康)を養子として送っている。
そのうえ、さらに秀吉が人質と上洛を求めてくるので、諸将たちを浜松城に集めて、今後の秀吉への対応について話し合いを行った。すると「これ以上、人質など出す必要はない」と、酒井忠次や本多忠勝をはじめ、秀吉との全面対決を望む家臣が圧倒的に多かったという。
家康自身にも「秀吉とはあくまでも対等な立場にある」という自負があったに違いない。自身の求心力を保つためにも、秀吉にこれ以上、従うわけにはいかなかったのである。
妹を政争の道具に使う秀吉の非情さ
そこで秀吉は次なる一手として、自分の妹である朝日を、家康の正室にと差し出した。『徳川実紀』によると、秀吉サイドから次のように持ち掛けられたという。
「家康の北の方は先年あることが起こったあと、いまだ正室を迎えられた方も聞かない。秀吉の妹を差し上げたい」
これには、妹が嘆き悲しんだことはもちろん、秀長も言葉を失うほど驚いたことだろう。
なにしろ、朝日はこのときすでに44歳で、他家に嫁いでいた。夫は佐治日向守といい、尾張の農民だったが、秀吉が出世したおかげで、武士に取り立てられたと言われている。
ところが、ここに来てまさかこんな運命が待ち受けているとは、朝日も夢にも思わなかったことだろう。秀吉のよき理解者だった秀長とて、このやり方には賛同できなかったに違いない。
幼少期から実家に寄り付かずにブラブラする秀吉の代わりに、秀長は長く家を守ってきた。秀吉よりも妹と過ごす時間が長かった分、こんな乱暴な話はあるかと、秀吉になんとか中止するように大坂城に駆け込んだのではないだろうか。


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