だが、天下人へ邁進する秀吉は聞く耳を持つことなく、天正14(1586)年に朝日を家康の元に嫁がせている。離縁させるために、夫の佐治日向守には500石を捨扶持として与えたが、その後、自害したとも言われる。
結婚後、朝日は家康とともに駿府城に移り住み、「駿河御前」と呼ばれることになる。
どんな手でも打つ秀吉の開き直りには驚かされるが、敵もまた然る者。家康はといえば、秀吉の妹を正室として受け入れながら、それでもなお上洛を渋っている。粘れるところまで粘ろうという腹づもりだったのだろう。
すると今度は、秀吉の母・大政所までもが「朝日の見舞い」という名目で岡崎城へ送られた。このときばかりは、秀長も「士の大なる恥辱ならん」と猛反対したという。そんな逸話が、江戸時代後期の儒学者・深田正韶が編纂した『稽徳編』につづられている。
まさに「狐と狸の化かし合い」のような攻防戦の末、家康がついに折れる。天正14(1586)年10月24日、家康は上洛を果たす。
家康がついに秀吉に臣従を表明
そして家康が大坂に来訪した10月26日、一行を自分の屋敷で迎えたのが、秀長である。二人はどんな言葉を交わしたのだろうか。
その夜にわずかな護衛を従えて、秀吉が秀長邸を訪ねてきたという逸話はよく知られている。秀吉は「明日の謁見では、自分に臣下の礼をとってほしい」と、家康に懇願して根回しをしたというのだ。
翌日の27日、家康は大坂城で秀吉に臣従を表明。秀吉が天下人としての地位を諸大名に知らしめた瞬間である。当然、秀長の姿もそこにはあった。
相手を従わせるためならば、家族を差し出し、また自ら頭を下げることもいとわない。
そんな兄の生き様を目の当たりにし、秀長は「やはり自分とは違う」と改めて驚嘆しながら、ここまで来たら大きな夢を実現させてやりたい、とも思ったことだろう。
家康を従わせた今、秀吉と秀長の視線は九州、島津へと向けられることになる。
【参考文献】
深田正韶著『稽徳編』(観成社)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)



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