さらに別の可能性を指摘する声もある。高島城が築かれた文禄元(1592)年頃は、豊臣秀吉による全国統一にともなって大名の移封が相次ぎ、各地で築城ラッシュが起きていた。そのため、「職人の手配がつかず、瓦職人を確保できなかったのではないか」という見方だ。
凍結しやすい瓦を避けたのか、それとも屋根を軽量化させたかったのか、はたまた瓦職人の人手不足か――。理由はそのうちの1つとは限らない。それらの状況から複合的に考えて、「こけら葺き」にしたのかもしれない。
また、築城にあたって問題となったのは、「屋根の材料をどうするか」だけではなかったようだ。
高島城を築いたのは、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉である。小田原攻めの功績により、天正18(1590)年に信濃高島へ入封した高吉は、文禄元(1592)年から慶長3(1598)年頃にかけて、諏訪湖畔の「高島」と呼ばれる場所に新城を築いた。
織田信長や豊臣秀吉のもとで普請(工事)を経験してきた高吉らしく、総石垣造りの城郭として整備された。
ところが、この場所には厄介な問題があった。諏訪湖畔という立地のため、地盤がひどく軟弱だったのである。石垣を積もうにも、地面がぬかるんでいてそのままでは沈んでしまう。
そこで地面の下に木材を格子状に組んで土台とし、その上に石を積み上げるという工法で難題を乗り越えた。しかしそれでも石垣の傷みは止まらず、繰り返し補修が必要だったという。
墓石や石仏まで転用された
難工事の陰には、地元の人々の苦労もあった。城を築くにあたり、高吉はまず高島の村人を一村まるごと移転させたという。漁業権や賦役(労働力負担)免除といった特権を与えることで、住民の了承を得た形だったが、それだけではなかった。石材の確保のため、付近の金子城の石材はすべて運び出され、墓石や石仏まで転用されたという伝承が残っている。
そんな苦労を経て、完成した高島城は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、あたかも湖上に浮かんでいるように見えたという。そこから「諏訪の浮城」という雅な異名が生まれた。松江城・膳所城とともに「日本三大湖城」の1つに数えられる所以である。
こけら葺きの渋い色合いの天守が諏訪湖の水面に映える姿は、さぞかし独特の景観だったことだろう。


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