九鬼嘉隆といえば、織田信長の命で鉄甲船を建造し、毛利水軍を破った「水軍の将」として知られる。信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵でも活躍した。水軍の運用を重視した嘉隆にとって、四方が水に囲まれた鳥羽城は理想的な拠点だったと言えよう。
そして寛永10(1633)年、譜代大名の内藤忠重が入城した。二の丸、三の丸を増築するなど大改築を行っている。
この忠重の時代に、色が塗り分けられたらしい。なぜこのような真逆の配色にしたのか。
その理由は、なんと「魚」。もし、海側も白色にしてしまうと、太陽光が反射して魚に刺激を与えてしまうため、海側は黒い城壁としたのである。
魚好きな城主の優しい配慮……というわけではなかったようだ。実は忠重が改築しまくったがために、鳥羽藩は財政難に陥っていた。鳥羽の名産物であるボラを財源とするためにも、光と音に敏感なボラに逃げられてしまうわけにはいかなかったのだ。
明治4(1871)年の廃藩置県後に建物は解体。海沿いの城だったことから、二の丸や三の丸のあった場所は造船所に造り替えられた。さらに大手水門などの場所は、鳥羽水族館へと姿を変えている。水族館前では、ボラが群れとなって岸壁の手前が黒く見えることもあるとか。
現在、鳥羽水族館の裏手にある低い丘が鳥羽城跡となっており、本丸跡からは鳥羽湾が一望できる。「二色城」とも呼ばれた、かつての城の姿を想像しながら、九鬼嘉隆や内藤忠重が見たであろう風景を楽しむのもよいだろう。
天守の屋根が瓦葺きではない「高島城」
城の天守といえば、白漆喰の白壁に瓦屋根が定番だ。ところが、信濃国(長野県)の諏訪湖周辺に建てられた高島城の天守は、屋根が瓦ではなく「こけら葺き」だった。
ヒノキの薄い板を何枚も重ねて葺くこけら葺きは、神社仏閣ではお馴染みの手法だが、城の天守に使われた例は、高島城以外にほとんど知られていない。
なぜ天守にこけら葺きが使われたのか。理由は2つ考えられている。
1つは気候である。諏訪は寒冷地であり、瓦だと水分を含んだまま凍結しやすく、膨張して割れたり表面がはがれたりしかねない。もう1つは、城が建てられた場所は諏訪湖畔の軟弱地盤であり、屋根はできるだけ軽量にしなければならない、という事情もあった。


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