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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「明智光秀と共謀して信長を討った」ウソの噂で疑われ…織田信長が可愛がった甥・織田信澄の悲劇的な最期

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大溝城跡
大溝城跡(写真:公益社団法人 びわ湖高島観光協会HPより)
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そして天正3年(1575)8月、越前一向一揆征伐に信澄も従軍。これが信澄の初陣と推測されます。この時、彼は同書に「津田七兵衛信澄」の名で記されています。

越前一向一揆の討伐は過酷を極め、山々に逃げ込んだ一揆勢の人々にも信長は容赦せず、男女の別なく斬り捨てることを命じました。捕縛された人々は1万2250人余でしたが、これらの人々は哀れにも信長の「御小姓衆」により斬殺されたのです。

この討伐戦において信澄は柴田勝家・丹羽長秀と共に鯖江の鳥羽城を攻撃。彼らは500、600もの敵兵の首を獲ったとのことです。大規模かつ凄惨な一揆討伐を見て、信澄は何を感じたでしょうか。

天正4年(1576)、信長は近江国の安土山に城を築き始めますが、安土城の築城にも信澄は尽力しています。『信長公記』には「津田坊」(信澄)が大きな石を山の麓まで運んできたとあります。ところがその大石は「蛇石」と称せられる「名石」であり、なかなか山へ上げることができません。

そこで「津田坊」ではなく、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の3人が1万人余の人々を動員し、昼夜を問わず3日がかりで山に石を運び上げたと言います。

信長から受けた厚遇

さて信澄にとって1つの転機となったのが天正6年(1578)2月のこと。この時、北近江の浅井氏に仕え、その後、信長に臣従していた磯野員昌が信長の意に背き、叱責されたことで「逐電」してしまいます。

員昌は近江国高島郡を領していましたが、出奔してしまったことから、そこは「津田七兵衛信澄」に与えられました。『寛政重修諸家譜』には天正6年2月、信澄は信長から「近江国大溝の城」を賜ったとあります。同時に信長からは先祖伝来の刀、正宗の脇差などを与えられています。その後も信澄は各所を転戦しています。

天正9年(1581)10月、信長は平定した伊賀国を「見物」するため、同国に赴きますが、嫡男・信忠や「織田七兵衛信澄」を同行させています。信長の親族として、信長は信澄を信頼していたことが分かるでしょう。「豊臣兄弟!」では信長は信澄を疑い、激しく譴責するようですが『信長公記』などからはそのような事は窺えません。

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