8年後、父の遺言を守るべく、元親は本山城を勝ち取り、父の宿敵だった本山茂辰(しげとき)は失意の中で病死。嫡男の親茂が降参し、長宗我部家は本山氏との戦いに、見事に勝利している。
同時期に、元親は、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎(あき くにとら)とも戦って勝利。このときには、「城内の井戸に毒を入れた」という情報を流して、相手方をかく乱させるという頭脳プレーを見せている。
おそらく、元親は初陣での勝利で周囲の評価を一転させたことで、確信したのだろう。物事には入念な準備が必要で、戦が始まれば状況に応じて策を練ることが重要だと。
自分の戦い方を心得ていた元親は、その武力をもって土佐を統一。そればかりか四国をも制覇してしまう。
秀吉に領地を削られても腐らずに奮闘した
だが、本能寺の変で信長が暗殺されると、状況は一変する。明智家と近かった元親は秀吉と敵対しなければならなくなってしまう。
秀吉によって土佐一国へと再び縮小されてしまった元親。それでも気持ちが折れることはなかった。
元親は土佐の検地を進めて、1597(慶長2)年には、四男の盛親とともに「長宗我部元親百箇条」を発布。家臣と領民のために内政を固めていった。
その翌年、元親は病に倒れて病死。元親から家督を継いだ盛親が、第22代当主となるが、大坂夏の陣で敗れて、処刑されてしまう。盛親が、最後の長宗我部当主となった。
土佐一国に押し込められながらも、腐ることなく内政を固めていった元親。その元親と秀吉の間に立ち、交渉の窓口となったのが、秀吉の弟・豊臣秀長だった。
「姫若子」から「鬼若子」へと変貌を遂げ、四国を制した猛将を相手に、秀長はどのような手腕を発揮したのか。大河ドラマ「豊臣兄弟!」でもいよいよ「本能寺の変」を迎えようとしている。秀長が兄の秀吉と名だたる戦国大名との間で、どんな折衝を行ったのか。本連載で解説していきたい。
【参考文献】
長宗我部友親『長宗我部』(文藝春秋)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)
真山知幸著『企業として見た戦国大名』(彩図社)


