不祥事からの再出発に必要なのは、単に「自分はこう認識している」と説明することではない。社会がその人をもう一度受け入れるかどうかは、法的な結論だけでなく、その人が過去の出来事をどう引き受けているか、その語り方にどれだけ他者への想像力があるかによって決まる。
今回の高畑の声明は、本人にとっては勇気を要する行動だったのだろう。過去を整理し、これからの活動に向き合うための節目にしたかったという意図も理解できる。だが、文章としては、自分の事情を説明することに比重がかかりすぎている。謝罪や反省の言葉は含まれていたものの、全体としてはやや言い訳がましい印象が勝ってしまった。
表現活動を続けることは否定されるべきではない
高畑裕太が今後も表現活動を続けていくこと自体を否定するつもりはない。人は過去の失敗や不祥事を抱えながら、それでも生きていくしかないからである。ただし、今回の声明が再出発のための一歩になるかどうかは疑わしい。むしろ、世間に忘れられかけていた問題を再び可視化し、その語り口によって新たな反発を招いている可能性がある。
高畑が本当に過去と向き合うつもりであれば、必要なのは、自分がどう誤解されたかを説明することではなく、自分の行動が他者や社会にどのような影響を与えたのか、それを踏まえて今後はどのような生き方をしていくのか、ということをより深く考え続けることではないか。
今回の声明は、その出発点としては意味のあるものだ。しかし、少なくとも現時点では、彼自身が望んだであろう名誉回復や理解の拡大にはつながっていないように思えてならない。
