ここに今回の声明の危うさがある。性加害をめぐる問題では、法的事実、報道された事実、当事者の認識、社会的印象が複雑に絡み合う。もちろん、不正確な報道によって1人の人間の人生が大きく損なわれることはあってはならない。本人が事実関係について異なる認識を持っているなら、それを表明する権利もある。
ただし、その表明が「自分は本当は悪くなかった」というニュアンスを帯びている場合、世間はそれを慎重に見る。特に、相手が一般人の女性であり、現在も沈黙しているような状況では、一方の当事者だけが自分の言葉で詳細を語ること自体に非対称性が生じる。
高畑は本件に関する取材を基本的に断るとも記しているが、それならばなおさら、この声明は一方通行の説明として受け止められやすい。
高畑裕太という人の本質は、もともと「自分を抑えきれない表現者気質」にある。事件前の彼は、テレビの中で過剰なほど無邪気で、感情や欲望がそのまま表に出てくるような人物として扱われていた。そこには魅力もあったが、同時に危うさもあった。
母親の高畑淳子も、事件直後に行われた記者会見の中で、裕太が学生時代に規律を守らなかったということに触れて、「やってはいけないことをやってしまう危うさ」や「女性に対する危うさ」があったかもしれない、ということを率直に語っていた。
思いが先走り、配慮が不十分
今回の声明にもそのような部分が見える。長い沈黙を破り、自分の言葉で語ろうとする姿勢には表現者としての切実さがある。だが、その思いが先走りすぎているために、読者が最も慎重に見ている部分への配慮が十分に行き届いていない。
自分の名誉を回復したい、自分の人生を前に進めたいという気持ちは理解できる。しかし、その思いが前に出れば出るほど、被害を訴えた側の存在が後景化し、「結局、自分のための声明なのではないか」という印象を強めてしまう。
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【他者への想像力があるかが見られる】
