つまり、これは単なる自己弁護ではなく、今後も活動を続けるために、自分の言葉で過去を整理し直す必要があると考えた結果なのだろう。本人にとっては、沈黙を続けることが誠実なのか、それとも自分の認識を明らかにすることが誠実なのか、その間で長く揺れていたのではないか。
そこには、不祥事後の芸能人が直面する独特の困難がある。黙っていれば「説明責任を果たしていない」と言われ、何かを語れば「言い訳をしている」と受け取られる。高畑の声明は、その袋小路から抜け出すための試みだったと見ることができる。
しかし、問題は、その試みが十分に成功しているようには見えないことだ。むしろ今回の声明は、本人が期待したような理解や納得を広げるよりも、事件を蒸し返し、かえって印象を悪くする可能性がある。
何が問題だったのか?
最大の理由は、声明の焦点が「自分がどのように誤解されたか」に寄りすぎている点である。
高畑は、報道された内容と事実には齟齬があったと説明し、女性の交際相手を名乗る人物が当時の所属事務所や撮影関係者のところに怒鳴り込んできて、高額な金銭を要求したことに触れている。また、その人物は元暴力団関係者であることが判明したという。
これらは本人にとって、当時の状況を理解するうえで欠かせない要素なのかもしれない。だが、読み手の側から見ると、その記述はどうしても、女性側にも問題があったかのような含みを帯びてしまう。
当日の詳しい事実経過についてはプライバシーの観点から一切説明していないにもかかわらず、女性にとって不利と思われる情報だけを一方的に開示している。文章全体の印象としては、被害を訴えた側の信頼性に疑問を投げかけているように読めてしまう。直接そう書いているわけではないが、そのように受け取られてしまうような書き方をしている。
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【自身の考えを表明する権利はあるが…】
