安政6(1859)年には開港地となった横浜で商売をしながら、今度はアメリカ公使ハリスの通訳ポートマンから英語を習得している。そんな卯三郎の語学の才が存分に生かされたのが、文久3(1863)年の薩英戦争である。
前年の生麦事件をきっかけとした薩摩藩とイギリス海軍の武力衝突において、卯三郎はイギリス海軍の旗艦ユーリアラス号に乗船。イギリス側の通訳として、和平交渉に尽力した。
薩英戦争は勝敗がつかないまま、いったんイギリスが引き上げることになったが、家業に励む卯三郎のもとに大久保利通からの使いがやって来て、こんな依頼を受けることになる。
「英代理公使ジョン・ニールに停戦を申し入れてほしい」
卯三郎がユーリアラス号でニール公使と面識があることを知って、大久保はその力を借りようと考えたらしい。卯三郎は横浜の英公使館に出かけていき、一商人でありながら、公使と面会。向こうの言い分を薩摩藩に伝えるなど、薩英の橋渡し役を務めた。
結局、薩摩はイギリスの要求を全面的に受け入れて和睦に至る。埼玉の酒屋の三男坊は、いつの間にか外交の表舞台で、その人間力と語学力を武器に、大いに活躍することとなった。
パリで芸者を売りだした「日本ブームの仕掛け人」
卯三郎の人生最大の見せ場が、慶応3(1867)年のパリ万国博覧会だろう。
蘭学の師である箕作秋坪に誘われたとき、卯三郎は「商人の身分では許されないだろう」と、珍しく一度は躊躇したと自伝『わがよ の き』に記している。
しかし、親戚の名主に背中を押され、渡欧を決意。徳川昭武を首班とする幕府使節団に加わり、日本人商人として唯一の個人出品者として参加した。参加希望の願書には、次のように意気込みを綴っている。
「素晴らしい品物を集めて、外国人を驚かしてやりたいと思います。このことによってお国に受けた恩の万分の一を報じたいと存じますので、出品をご許可願います」
次ページが続きます:
【大反響だった「茶屋」の展示】
