だが、比叡山側は表立った軍事行動は控えたものの、兵糧などの援助は依然として行い、書簡の返事もしなかった。そんな態度をみて、信長は比叡山の宗教勢力を徹底的に叩き潰すことを決意する。
比叡山が民衆を結集させ、死をも恐れない狂信的な集団を作り上げていたことも、信長が警戒心を強めた一因となった。
地獄絵図だった「比叡山の焼き討ち」
元亀2(1571)年9月30日、比叡山を襲撃。信長勢は一斉に火を放った。
比叡山にいた老若男女は皆、突然の大火に裸足のまま逃げまどった。しかし、あらゆる方向から火の手が襲いかかってくる。山の四方に火が放たれたため、逃げ道は全く断たれていた。煙は化け物のように膨れ上がり、一山すべてが灰と化した。
3000人もの宗徒が火にただれて焼け死に、無残な遺体が折り重なった。伝来の秘仏も経巻も宝物もすべて炎の中に消えた。まさに地獄絵図である。
比叡山を代表する高僧、学識の高い僧、さらに女、子供……、誰であろうが処刑の対象となり、1600人もの首が斬られた。斬っても斬っても、捕虜の列は途絶えなかった。
あまりに残忍な信長だったが、宗教勢力を抑え込んだという点で評価する声もある。
というのも、信長が生きた時代、宗教団体は自らの信仰を守るために武装し、他の宗教団体といがみ合っていた。焼き討ちにされた比叡山延暦寺も例外ではなく、対立していた法華寺院21ヶ寺を燃やし、多くの人々を虐殺した。その法華宗徒らもまた、ライバルである本願寺の焼き討ちを行っている。
そんな血で血を洗う宗教戦争に終止符を打ったのが、信長の「比叡山焼き討ち」だという見方もできる。
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【武田信玄「信長は天魔の変化」】
