ウェルビーイングが導く、社会課題の解決法・前編 「ポストSDGs時代」の新たな指標をつくる意義

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写真左から前野隆司氏(慶應義塾大学大学院教授/武蔵野大学教授)、山藤昌志氏(三菱総合研究所 主席研究員)
写真左/前野隆司氏(慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科教授/武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授) 写真右/山藤昌志氏(三菱総合研究所 政策・経済センター 主席研究員)
《特別対談》ウェルビーイング(Well-being)の研究・普及活動に実績のある慶應義塾大学大学院教授・武蔵野大学教授の前野隆司氏は近年、企業のウェルビーイングへの関心の高まりを実感しているという。三菱総合研究所(MRI)で人材、労働、社会保障分野の政策提言を行う山藤昌志氏は、これからの社会の目標を「GDP拡大ではなくウェルビーイングの最大化」だという。ウェルビーイングの多義的な概念を指標化し、社会課題解決に結び付ける方法について2人が語り合った。

“ポストSDGs時代”のウェルビーイング

山藤 近年、日本でもウェルビーイングに対する注目度が高まり、社員をはじめステークホルダーの幸せの実現を目指す「ウェルビーイング経営」に取り組む企業が増えています。この状況を、前野先生はどう捉えていらっしゃいますか。

前野 確かに健康経営®や働き方改革、人的資本経営などの文脈から、企業のウェルビーイングへの関心は明らかに高まっています。私は16年ほど前からウェルビーイングの重要性を主張してきましたが、当初はほとんど反響がありませんでした。最近は企業を中心にこの考えが広まり、大きな変化を感じます。

よりマクロな視点で捉えると、環境問題や気候変動、貧困や格差の問題、戦争やパンデミックなど、人々の幸福な暮らしを妨げるようなさまざまな課題が地球上にあるからこそ、ウェルビーイングが注目されているということだと思います。20世紀はGDPの拡大と人々のウェルビーイングとはおおむね比例関係にありました。しかし21世紀に入ると、GDPとウェルビーイングが一致しなくなってきた。経済成長や開発一辺倒の資本主義のあり方に限界を迎え、ウェルビーイングを考慮した新たな資本主義に移行しなければならない。そういう局面に人類が直面していることが背景にあると思います。

慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科教授/武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授 前野 隆司氏
慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科教授/武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授
前野 隆司(まえの・たかし)
1984年東京工業大学工学部機械工学科卒業、1986年東京工業大学理工学研究科機械工学専攻修士課程修了、同年キヤノン株式会社入社、1993年博士(工学)学位取得(東京工業大学)、1995年慶應義塾大学理工学部専任講師、同助教授、同教授を経て2008年より慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科教授。2011年4月より2019年9月までSDM研究科委員長。2024年4月より武蔵野大学ウェルビーイング学部教授兼務。この間、1990年-1992年カリフォルニア大学バークレー校Visiting Industrial Fellow、2001年ハーバード大学Visiting Professor。

山藤 私が所属するMRIの政策・経済センターは、いわゆるマクロ経済分析に基づいて景気見通しなどを公表する部門です。ただ、日本の経済・社会の中長期的な未来像を展望するには、おっしゃるとおり、GDPに代表される従来の経済的な価値軸だけでは捉えられないと私たちも感じていました。コロナ禍も大きな契機となり、2020年5月に「ポストコロナ」における社会像を研究するチームを立ち上げ、同年7月に「ポストコロナの世界と日本─レジリエントで持続可能な社会に向けて」というレポートを発表。目指すべき社会像を「レジリエントで持続可能な社会」と位置づけ、その究極的な目標はGDP拡大ではなく、ウェルビーイングの最大化だと定義しました。そこからバックキャスティングする形で、従来とは違った視点から政策提言などを行おうと挑戦しているところです。

前野 SDGsの目標年は2030年ですから、そろそろ「ポストSDGs」を考えるべき時期でもあります。ポストSDGs時代の最大のテーマはウェルビーイングだとする研究者は少なくありません。ぜひ2030年の先を見据えて、ウェルビーイングをより深く考える社会づくりを目指していきたいですね。

ウェルビーイングをどう指標化すべきか

山藤 そこで、ぜひご意見をお聞きしたいのが指標化の問題です。GDPに代わる新たな価値観として、ウェルビーイングが有望なのは間違いありませんが、政府の政策運営や企業の事業展開などを着実にウェルビーイング向上に結び付けていくには、漠然と追求するのではなく、何らかの指標を定義することが必要だと思うのです。では、非常に多義的なウェルビーイングを、指標としてどう定義していくべきなのか。

前野 ウェルビーイング学会では、国内におけるウェルビーイング実感を示す主観的な指標としてGDW(Gross Domestic Well-being)を、GDPと同様に四半期ごとに公表しています。最高の理想的な生活を10点、最低の生活を0点としたとき、あなたは何点ですかと主観的なウェルビーイング実感を問う「キャントリルの階梯」という測定法をベースにしたものです。かなり大ざっぱな考え方でベストな指標とはいえませんが、ウェルビーイング学会では少なくともGDPではなく、人々のウェルビーイングを主観的に捉えた指標を広めていこうと活動しています。

ただ、本来は多様なはずのウェルビーイングを一元的な指標で表すのはわかりやすい半面、「この指標さえ高ければ、それでいい」と安易に捉えられてしまうリスクもあります。

山藤 おっしゃるとおりです。そこで私たちは、できるだけ厳密に定義しようと試みました。ウェルビーイングを「人間」「社会」「地球」という視点で整理したうえで、人間について4要素、社会について4要素、地球について1要素、合計で9つの要素に分類し、さらに21項目・36指標に細分化した「MRI版ウェルビーイング指標」を定義しました。生活者1万人へのアンケートを基にした主観的な指標で、2021年から定点観測的に調査を続けています。ゆくゆくは、これを政策決定の判断材料や企業のウェルビーイング経営の指標などに活用してもらうことを目指していますが、シンプルな指標ではないので、わかりにくい面はあります。

三菱総合研究所 政策・経済センター 主席研究員 山藤 昌志氏
三菱総合研究所 政策・経済センター 主席研究員
山藤 昌志(さんとう・まさし)
人材、労働、社会保障分野を中心とする政策提言、労働需給や人口動態、健康寿命に関するシミュレーション、各種統計手法を活用したデータ解析などに従事。現在は研究提言チーフとして人材分野の自主研究や企業との共同研究、政策提言の取りまとめを担当する。

前野 そもそもウェルビーイングは身体的・精神的・社会的に良好な状態を指す広い概念ですから、多面的に捉える発想はよいと思います。

例えば「健康」が私たちにとって大切なのは当然ですが、「健康指標」という単一の指標はないですよね。血圧や心拍数、あるいは中性脂肪やガンマGTPなど、多面的な指標を使って健康状態を判断しています。これと同じで、幸せやウェルビーイングも多面的に測るべきなのに、それがあまり認識されていません。ウェルビーイング経営に取り組む企業が増えているのはいいのですが、身体的な健康のみに注目して、職場でのやりがいや信頼関係など精神的・社会的要素を考慮していないケースが少なくない。あるいは経済的な安心感を持って暮らせる「ファイナンシャル・ウェルビーイング」が重要だとして、投資教育などだけにフォーカスしている例もあります。

SDGsには、最後に複数形を示す「s」が付いていますね。具体的な17個の目標(Goals)を意味しているわけですが、「当社はSDGsのうち7番と13番に取り組んでいます」という具合に、悪い意味で細分化されてしまっている気がします。ウェルビーイングはそうなってほしくない。健康もファイナンスも重要ですが、本来は多面的であるはずのウェルビーイングにバランスよく取り組んでほしい。だからこそ、ウェルビーイングへの取り組みがバラバラにならないよう、中心に芯を通すようなメッセージを発信し続けることが必要だと感じています。

山藤 指標化の文脈で、私たちがもう1つ注目しているのが、インパクト投資におけるインパクト計測管理(IMM)です。企業は事業活動を通じて、何らかのアウトプット(製品・サービスなど)を生み出し、それがいくつかのアウトカム(成果)をもたらして、最終的な社会的インパクト(脱炭素への貢献、健康寿命の延伸など)に至ります。その流れを、ロジックモデルを組んで把握し、KPIを立ててモニタリングしていくのがIMMの考え方です。

そのKPIとして、当社が提言しているようなウェルビーイング指標を取り入れることで、企業の事業活動をウェルビーイングの観点で評価できるのではないか、という仮説を私たちは持っています。この発想でウェルビーイングを事業活動に取り込む企業も出てきています。

前野 ロジックモデルにウェルビーイング指標を取り入れるのはいいですね。私も現在、デジタル庁と一緒に、地方自治体の政策や行政サービスをウェルビーイングと結び付けるロジックモデルをつくろうとしています。小さな自治体でも約1000件もの政策などを手がけており、そのすべてにロジックモデルを組むのは大変です。ただ逆にいえば、これまでは1000もの政策が住民の幸せに本当につながっているのかを明らかにしてこなかった。ウェルビーイングを含めたロジックモデルの議論を進めていくことは今後重要でしょう。

山藤 企業の間でも同様の機運が高まってほしいと考えています。ただ企業としては、自社の事業がどのような社会的インパクトをもたらすのか、投資家に情報を開示する必要があります。自治体と同じで、大企業では1000件近い事業やプロジェクトを持つ場合がありますから、一つひとつにウェルビーイングの定量的な指標を組み込み、詳細に開示していくのが難しいのは確かです。

前野 時間はかかるでしょうが、ぜひ取り組んでほしいですね。その際、カギになるのは株主の理解かもしれません。長期的な利益のためにはウェルビーイングが不可欠です。社員のウェルビーイングが保たれていれば、不確実性の高い環境下でも挑戦心を失わず、イノベーションを生み出せると期待できます。しかし、株主が短期的な利益ばかりを求めてしまうと、ウェルビーイング経営を実践しにくい。サステナブルな地球環境のために、株主も長期的な利益を志向していく必要があります。企業がロジックモデルをつくるように、株主もウェルビーイング時代にふさわしい思考のロジックモデルをつくってほしいですね。(後編に続く)

「健康経営」はNPO法人健康経営研究会の登録商標です。
※ 社会課題解決や社会価値創出につながる企業活動を「インパクト」と呼び、そのような企業を選んで投資することを「インパクト投資」という。

●関連ページ

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>>後編はこちら

※この対談は、『フロネシス25号 その知と歩もう。』(東洋経済新報社刊)に収録したものを再構成したものです。