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富裕層だけの負担でいいのか ピケティと日本の格差問題

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読者諸氏は食傷ぎみかもしれない。大ブームにあおられ、筆者も『21世紀の資本』600ページを読んでみた。

大部の割には文章は平易で論旨も明快。とても読みやすい。ピケティが愛読したバルザックやオースティンがふんだんに引用されている。

数学のプロであるピケティだが、最も好きだったのは文学と自身が語っている。数式が幅を利かす現在の経済学の中で、あえて文学を正面に据えて論じたことも、読者の目には新鮮に映るのだろう。

ピケティは「経済科学という表現が嫌いだ」と言う。数学モデルに依存していることをもって「(科学と言うのは)傲慢だ。むしろ(経済学は)政治歴史経済学と呼ぶべきだ。最も恵まれない人々の利益を考えるのが経済学ではないか」と。爽快極まりない。

見捨てられる未来

ピケティのテーマは格差論である。平たく言えば、「経済成長は格差を拡大させるのか、それとも縮小させるのか」という問題だ。ピケティは、バルザックやオースティンに巧妙に語らせながら、各国の比較可能な膨大な長期統計によって自説を論証する。

「市場に任せておけば、格差がおのずと拡大する」。より厳密に言えば、「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出す(r >g)」。これがピケティの主張である。

では、格差が自動的、不可避的に拡大するのなら、どうすればいいのか。ピケティは、富裕層を対象とする相続税、累進所得税、資本に対する世界的な年次累進課税などを提唱する。閉塞感が強まる今の時代、ピケティが好まれるのはよくわかる。これは21世紀の『資本論』だ、という評価も、あながち間違っているわけではないだろう。

だが、ピケティは救世主なのだろうか。格差に真正面から取り組むべきだ、という点には誰も異論はないだろう。問題は、ピケティの主張があまりにも爽快なため、その主張自体がかえって社会対立を生みかねないということだ。短絡的に富裕層を敵視する方向に走ったら、経済社会を損なうことにならないか。

富が集中し偏在するというピケティの分析は、米国には比較的当てはまるような気がするが、わが国は富裕層の絶対数が少なく、富の集中度はそれほど高くはない。

わが国の格差拡大は、富裕層の増大ではなく、むしろ貧困層の増大によって特徴づけられる。一人親世帯が全世帯の1割弱を占め、一人親世帯の子どもの約6割が貧困にあえいでいるのである。

貧困層に育った子どもは、成人後もなかなか貧困から脱却することができず、その子どももまた貧困層となる。この連鎖を断ち切るには、社会全体での財源負担が必要だ。誰が考えても、富裕層だけの負担で済むはずがない。

子どもは未来である。われわれは自分たちの未来の5%を見捨てているという事実に、もっと目を向けるべきだろう。誰よりもピケティ自身、そのことを強く望んでいるのではないか。(ハドリアヌス)

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