スポーツ報道の「見どころ至上主義」は限界だ 日本のスポーツジャーナリズムの不可解さ

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メディアが個別のスポーツイベントと一体化しているゆえの問題もある。日本の陸上界の駅伝中心主義がマラソン選手の育成に悪影響を及ぼしている、といった批判を日本テレビが積極的に取り上げることはないし、高校野球の投手が夏の甲子園大会で酷使されていることを『朝日新聞』が問題視して大々的なキャンペーンを張ることもない。

その点で深刻なのは、記者がインサイダー化されてしまうことだ。高校野球の特待生問題も、バスケットボール界の内紛も、大相撲の「リンチ死亡疑惑」も、柔道界の暴力・パワハラ問題も、私の知るかぎり、それぞれの分野を日常的に取材していたマスコミ関係者は発覚する以前からある程度まで気づいていたし、危機意識をもっている記者も少なくなかった。しかしコンテンツの価値を守ることがメディア組織として優先されれば、個々の記者としては動きようがない。

過度の商業主義に鈍感になりがちという問題もある。1998年の長野冬季オリンピックのクロスカントリースキーで、アフリカのケニアから出場し最下位ながら完走した選手を、優勝したノルウェーの選手がゴール地点で出迎えて称えるという「感動のドラマ」があった。しかしこのケニアの選手は、アメリカの大手スポーツメーカーが丸抱えでトレーニング費用を出しており、黒人が白銀の世界に挑むというドラマティックな絵の中でそのスポンサーのロゴがいっそう目立つという演出意図が大会当初から指摘されていた。

私も現地で取材していて「なんだかなあ……」と思っていたが、案の定、その選手の会見で欧米メディアの記者が「あなたが滑るのは自分のため? 国のため? それともスポンサーのため?」と質問し、選手が絶句するという場面があった。

その様子は日本でもNHKが字幕入りで放送した。映像のインパクトがある分、競技運営側やスポンサーに利用されやすいテレビには、そのことを意識して「映像の裏」に何があるかを積極的に視聴者に伝える義務がある。

メディアは競技者とファンの利益を増やす努力を

ジャーナリズムを標榜するのであれば、国際試合の報道が、ある種のプロパガンダに変質していることにも自覚的であってほしい。番組での露出が日本代表や日本人選手に偏るのは視聴者ニーズを考えればやむを得ないが、それはスタジアムの祝祭を盛り上げるショービジネスの一環であり、ナショナリズム的な高揚心を共有したい視聴者心理に迎合しているにすぎず、純粋な意味での報道では決してない。

突き詰めて言えば、競技者(アスリート)とファンの利益を少しでも増やすこと、両者の関係をよりよいものにすること以外に、メディアがスポーツに関与する理由も目的もない。

そして、報道によってファンのスポーツ・リテラシー(スポーツを読み解く力)が高まればもっといい。そこを原点にした「伝え方」「批評の仕方」を放送メディアはあらためて考えるべきではないかと思う。

竹田 圭吾 ジャーナリスト

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たけだ・けいご

ジャーナリスト。1964年生まれ。慶応義塾大学卒。『ニューズウィーク日本版』元編集長。著書に『コメントする力』。

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