宮崎アニメに「蒸気機関車」が登場するワケ そこには、アニメ界の大物がいた

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平成24年10月、荻窪のギャラリーで日本アニメーション文化財団のプロデューサー・なみきたかしさんの手によって「大塚康生・南正時の鉄道少年だったころ」展が開催された。

これは大塚さんの機関車絵が描かれたノートが、年月と共に劣化して絵も次第に消えかかっているのに危機感を抱き、すべてデジタルスキャンして復元したものを展示したものだ。「どうせだったら南クンの機関車写真と一緒にやろう」という大塚さんの提案で師弟のコラボ開催となった。

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大塚さんが描いた「三四郎列車牽引用」のスケッチ

大塚さんが描いたD52やC53などの絵の中に、昭和20年7月に山口県下大野で描いた「三四郎列車牽引用」という機関車のスケッチがあった。

機関車はC102形と明記され銘板のスケッチによると「米国ポーター社製No5681 1913年製」と記録されていた。私は「三四郎」という人名にも興味を持ち、鉄道博物館の学芸委員の協力も得て、この機関車の過去を調べてみた結果、この機関車は大正7年に小月-西市間18.2キロメートルに開業、昭和31年5月に廃止された私鉄「長門鉄道」の機関車だったということが判明した。廃止後はさまざまな鉄道を転々として、現在は京都府の大江山のふもと「加悦SL広場」に現存、保存されているとのこともわかった。

三四郎機関車と対面した私

さっそく単身、丹後に向かい「三四郎機関車」と対面した。大塚さんのスケッチと照らし合わせて現物を見ると70年前、戦時体制下のこの機関車の前で夢中にスケッチする大塚少年の姿がオーバーラップして感慨深いものがあった。後日、三四郎機関車と旅の報告を兼ねて大塚宅を訪ねると、大塚さんは保存されていた機関車の写真を見てしばし絶句。そして何度も「懐かしい、懐かしい」と写真に目を通していた。13歳のときに見て以来の実物(写真)と70年ぶりに対面したのだから、その記憶は一気に蘇ったに違いない。

ちなみに「三四郎機関車」の三四郎は、当時、四国の「坊ちゃん列車」に対抗して人気のあった「姿三四郎」の名を冠したのではないか、と大塚さんは言う。この名は大塚少年のスケッチした絵の中だけに残る大塚さんだけの「ヒーロー機関車」であった。

昭和30年代の初め頃、大塚さんは東京から津和野に帰省する際に、米原、吹田、三原など機関区がある駅で途中下車して機関区で機関車の「撮り鉄」を楽しんでいた。その作品の中には吹田機関区の巨大なD52やC62が標準レンズに収まりきれず、フレームからはみ出した写真が多く残されている。

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