「比叡山の焼き討ち」で家臣に示した信長の"哲学" 家臣はなぜ僧兵らを恐れず戦うことができたか

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当時、僧兵を従えた寺院勢力に、多くの武将が手を焼いていました。それでも直接手を出すことがはばかられたのは、中世を生きる人間として、仏罰が恐ろしかったからです。

ではなぜ、織田の家臣たちは平気で、僧兵たちと戦うことができたのでしょうか? 仏罰より信長が恐ろしかったから? もちろん違います。

信長が家臣らに対して、「なぜ比叡山を焼き討ちにするのか」をていねいに説明していたからでした。

インテリの光秀も納得した

信長の家臣が延暦寺を焼き討ちできたのは、裏を返せば仏罰を恐れていなかったからです。中世を生きる者にとって、神仏に対する畏れは、21世紀を生きる我々には想像できないほど大きな、日常生活を縛るものでした。

それでも織田軍が毅然として征伐をやれたのは、信長が「彼らを殺しても、仏罰は当たらない」という哲学を、家臣たちに浸透させていたからでした。

「私はやがて、泰平の世をもたらす。それを天下の人々は望んでいる。だが、僧兵たちが泰平への道を邪魔している。いまや仏教は堕落し切っている。彼らは袈裟を着ていても経文すら読まない。日々酒を食らって、女性を平気で出入りさせ、破戒の限りを尽くしている。あんな奴らは坊主ではないし、叡山は学問の府でもない。延暦寺の高僧たちにも、こんな状況を野放しにしてきた責任がある。むしろ仏罰を受けるのは、彼らのほうだ。だから、私は攻めるのだ」

信長は決してうそを言って、家臣を丸め込んだわけではありません。明智光秀のようなインテリと伝えられる武将も、十分に納得できるレベルの説明でした。

フィクションの世界では、信長の前で光秀が土下座して、「比叡山の焼き討ちはおやめください」と懇願するシーンがよく見られます。

しかし実際は、延暦寺焼き討ちの10日前に、地元の国人に出した光秀直筆の手紙の中で、彼自身が「僧を皆殺しにする」と決意のほどを述べていました。

そもそも光秀は、焼き討ちでの武功を評価されて、近江国坂本の城主となったのです。比叡山のある土地をもらっているわけですから。当時の光秀には、信長についていけば何事もうまくいく、成功するという、絶大な信頼がありました。

焼き討ちは、現代の感覚すればとうてい受け入れられないことかもしれません。が、どのような戦術を命じても、それに見合う説得力があれば、部下は信じてついてきてくれるのです。この比叡山焼き討ちは、そのことを雄弁に語っているのではないでしょうか。

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