台湾が独立国家として生き残ってこられた理由 中国の侵攻に耐えうる条件がそろっていた

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1920年代や30年代には、少人数で構成された台湾人亡命組織がいくつも中国本土内で生まれていたが、そうした集団が合体して政治的な影響力を及ぼすようになったのは、日本との戦争が始まってからのことである。日本語を操る彼らは、諜報活動や宣伝活動において非常に重宝され、軍部の指導部にまで顔が利くようになっていた。さらに彼らの多くは、日本人から最新の医療技術も教わっていたため、前線で医療行為を行うこともできた。

そんな医師の一人が翁俊明である。彼は1912年、19歳の学生のときに孫文の「中国同盟会」に参加しており、台湾人亡命グループのなかで主要な人物となっていた。1940年9月には翁のロビー活動が実り、国民党中央組織直属として「台湾党部籌備処(ちゅうびしょ)」が設立され、翁がその担当となった。1941年2月にはいくつかの台湾人グループの同盟が合流して「台湾革命同盟会」が結成され、1942年6月には国民党に正式に認められるに至る。

国民党の台湾に対する主張が一転したのはこの時期だ。1942年中頃から、国民党は「光復」という言葉を使用しはじめる。非常にナショナリズム色の濃いこの言葉は、はるか昔の唐王朝の時代に、異国に征服された「国土の支配を取り戻す」という意味で使われていた。日本とは戦争、共産党とは敵意が増すばかりで社会全体に暗い空気が漂うなか、国民党はみずからを唐王朝になぞらえることで、巧みなプロパガンダ工作を展開できると考えたのである。

しかしここで興味深いのは、国民党が台湾の「光復」の正当性を国民に説明しなければならないと判断したことである。なぜなら突然の政策転換に対し国民は論理的根拠がないと考えるかもしれないからだ。歴史学者スティーブ・フィリップスの研究によると、党は以下のような根拠を挙げてアピールしている。

まず同一民族である(台湾人も漢族の血統である)という連帯感に訴え、次に歴史的事例(中国も台湾も2世紀にわたって清王朝の支配を受けてきたこと)をアピールし、それから下関条約の違法性を指摘し、最後に光復こそが台湾国民の希望であると訴えかけている。

外国の侵略に対する防波堤としての台湾

しかし、蔣介石自身の文書からも明らかなように、蔣が台湾を中華民国に統合したかった本当の理由は、何よりも地政学的なものだった。1942年11月、蔣介石は戦後政策の原案の起草に着手した。その草案は国家の安全保障問題について「もし中国の地域のどこか一つでも異民族に占領されれば、国民全体と国家全体が、自己防衛のための自然の障壁を失う。したがって台湾、澎湖諸島、東北部四省、内外モンゴル、新疆、そしてチベット、これらはすべて国家存続のための砦なのである」と述べている。「中国」という国を守るために、民族構成がまったく異なる周辺地域が、まとまって防御に徹しなければならないというのだ。

このように1942年のあいだに台湾は蔣介石と国民党にとって、外国からの侵略に対する防波堤として、そして国恥をすすぐ証として、一気に重要性が高まったのである。蔣はさらに、その他の領域についても中華民国への「光復」を推し進めるようになった。

チベットに対する中華民国の主権への支持を取りつけるべく、インドのナショナリストたちに働きかけると同時に、イギリスに対し香港の早期返還を求めた。イギリス政府はチベットも香港も、いずれも認めるつもりはなかったが、日本に満州および台湾を返還させることについては乗り気だった。こうして1943年11月、カイロ会談において蔣介石、チャーチル、ルーズベルトの3者のあいだで妥協案が締結され、台湾「光復」の手はずが整った。

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