"ダメ記者"から「文春」創った菊池寛の驚く人生 リーダーは"文豪社長"に学ぶべき事が多くある

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門井 寛が他の作家と大きく違ったのは、若いころにそうやって頭より身体を動かしたこと。これは後の会社経営に活きただろうと思います。

考える暇があったら次の取材先に行け、と命じられて色んな所へ走らされる。そういう経験はある程度の年齢になって、頭を使うポジションになった時にリーダーシップという観点からは良い効能があるでしょう。

逆に、若い時に身体を使う苦労をしていない、現場経験の少ない人が命令を出すと、指示が抽象的になりがちになるということは、多くの人が感じたことがあるのではないでしょうか。

若手時代に身体を使い、後年、頭も使うようになると、指示に現実の裏打ちがある。その裏打ちのことをあるいは、人はリーダーシップと呼ぶのかもしれません。この流れは、リーダーシップ涵養のための王道パターンの1つといえるでしょう。

“エラい”論文をありがたがらなかった

――菊池寛は1923年に月刊『文藝春秋』を創刊します。芥川龍之介や川端康成などを執筆陣に据え、雑誌は倍々ゲームのように部数を伸ばしていきました。雑誌を成功に導いた他にも、菊池寛の功績と言われているのが、座談会の発明や、作家を連れて講演会を行う「文芸講演会」事業、変わり種では、麻雀牌の販売など、様々な企画があげられます。門井さんの目からみて、菊池寛の経営手腕として印象的なことはなんでしょうか。

門井 1つには、月刊誌『文藝春秋』を総合雑誌化したことでしょう。そもそも『文藝春秋』は文芸同人誌として誕生しました。執筆陣も話材も文壇内に限られ、ほとんど文壇ゴシップ誌と言って差し支えないようなものでした。

それを、世の中で起こるあらゆることを広く扱う総合雑誌にしようと考えたのは、先ほどお話ししたように、時事新報社の記者だったキャリアを抜きにしては語れません。その頃の経験がなければ、『文藝春秋』は文壇内だけの内輪の雑誌として終わっていたでしょうし、菊池寛自身についても同じです。若くして強制的に社会の勉強をさせられたというのは、とても大きなことだったと思います。

――ただ、総合雑誌化したといっても、当時は『改造』や『中央公論』など大きな部数を誇った先行誌の存在がありました。そのなかで後発の『文藝春秋』はなぜ成功できたのでしょうか?

門井 先行誌の弱いところを突いたことではないでしょうか。『文藝春秋』は“エラい”先生方の“エラい”論文をありがたがらなかった。学者の論文なんて全然ないですから。

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