上から目線で「ワイン語る人」が知らない楽しみ方 ワインを楽しむのに知識から入る必要はない

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知識が足りなくてもワインを楽しむことはできます(写真:PIXTA)
番茶やビールを飲むのに「知識がないから」と卑下する人がいないのに対して、ワインとなると知識がないことを恥ずかしく感じることはないだろうか。細かいうんちくやマナーにこだわることなく、自分の好みに合ったワインを楽しむ方法を、イタリアと日本でワインと食について執筆するジャーナリストの宮嶋勲氏の新著『ワインの嘘〜誰も教えてくれなかった自由な楽しみ方』から紹介する。

「ワインは特別な飲み物」という思い込み

「ワインは好きだけど、よくわからない」という話を耳にする。「ワインについて何も知らないので」と恥じ入る人もいる。考えてみれば不思議な話だ。ワインはアルコール飲料の1つであり、嗜好品。楽しむのに知識など必要ない。番茶やビールを飲むのに「番茶がよくわからない」とか「ビールの知識がないので」と卑下する人がいるだろうか。

なのに、なぜかワインでは「わかる必要がある」とか「楽しむには知識がいる」といった奇妙な誤解が幅を利かせている。

おそらく西欧から導入されたワイン文化をあたかも高尚なものであるかのように崇め奉り、衒(げん)学的な蘊蓄(うんちく)を振りまく輩が幅を利かせたために、一般の消費者が萎縮してしまい、自由にワインを楽しめない雰囲気が生まれてしまったのだろう。残念なことだ。

ワインは本来、日常に根付いた飲み物だ。毎日の食卓にあり、食事を引き立て、団らんの時間を彩る。寛ぎ、憩い、明日への活力を与えてくれる庶民的な飲み物である。ビール、焼酎、日本酒と同じだ。何も特別な飲み物ではないのだ。

それを高価な宝石であるかのように喧伝し、取ってつけたような空虚な知識で飾り、珍しい「舶来品」として「箔をつける」というのは、まったく浅薄なアプローチで、鹿鳴館時代ならともかく、現代では滑稽極まりない。

ワインは日本の伝統的飲み物ではなく、異文化なので、それが紹介されるなかで、ある程度の齟齬が生じるのは避けられないかもしれない。ワインに限らず、外国の音楽、美術、料理などを導入する過程でも、そのようなことは起こってきたのだろう。そのような齟齬=誤解=「ワインの嘘」が自由にワインを楽しむことを阻害している気がする。

私は日本とイタリアで40年近くにわたって、ワインと食について執筆をしてきた。仕事柄、さまざまな場所で、多くの人とワインを飲んできたが、仕事を離れたら、その日に飲みたいワインを、好きなように楽しませてもらう。温度も、グラスも、一緒に食べる料理もその日の気分次第である。「やりたいようにする」以外のルールは一切ない。

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