他人同士の共同生活「沈没家族」で育った子の今 型破りな家族で育った人が大人になり思うこと

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――昨年の夏、めぐさんの「沈没家族」のインタビュー記事を公開したところ、すごく反響がありました。今の時代、「沈没家族」的な何かを求めている人は、実は多いのでしょうか。映画を観たお客さんに、土さんが取り囲まれているところを何度か見かけましたが、皆さん、監督の土さんにどんなことを話していたんですか?

映画「沈没家族」/2020年11月22日に名古屋で上映会がある(写真提供:©おじゃりやれフィルム)

自分の家族の話をしてくれる方が多いです。例えば、自分も母子家庭だったけれど、家に母と2人きりの生活だったから、人がいっぱい来ている「沈没家族」をすごくうらやましく感じた、とか。自分もいまパートナーと1、2歳の子を育てていて、いろんな人が来たらすごくいいと思うけれど、自分たちがいま「沈没家族」と同じようにできるかというのは、すごく考える、という方もいます。セキュリティーをどうすればいいんだろう、とか。

あとは、「昔は隣近所の人が子どもの相手をしてくれたりしたから、よかった。それを思い出した」と話してくださる年配の方も多いです。確かに似ているんですが、「沈没家族」とはちょっと違うなと思ったりもして。

――確かに同じようにも見えます。何が違うんでしょう?

隣近所で育てるというのは、「その土地にいるからやること」で、ある種、選択の余地がないですよね。みんなそこに参加しなければいけない。たとえ隣人が嫌な人であっても、長屋だったらみんなそこに参加するし、自分の子どももそこでみてもらうのが当たり前。それを、慣習として受け入れなくてはいけないところがあります。

でも「沈没家族」の場合は、みんな能動的に来ているわけですよね。自分の意思をもって、「保育をしたい」と思っている人が、来ている。そういう、しがらみのなさみたいなところが、長屋の子育てとは違うところだと思うんです。

僕も最初はその違いをうまく言葉にできなかったんですけれど、以前広島の映画館でトークイベントをやったとき、穂子さんが「それはね、ちょっとちがう」と語っていた。それを聞いて、僕もすごく合点がいった感じです。

――なるほど。私はよくPTAという子どもの保護者組織を取材するんですが、PTAも「この学区(学校)の保護者は全員、必ずやる」という形だから、つらくなりがちです。本人の意思は二の次なので。

場所を共有しただけで、参加したくないものに参加しなくてはいけない、という圧力みたいなものが出てくることは、ありますよね。「沈没家族」の場合は、出入り自由なので、それがなかった。

親が自分を犠牲にすると、子どももつらい

――お母さんの穂子さんは、よくぞ、ああいうスタイル(沈没家族)を生み出しましたね。

そうですね。どうやって「沈没家族」を始められたのか、あの場をより愉快に維持できたポイントはどういうことだったのか、ということを僕も考えてきました。

例えば、穂子さんの場合、あくまで「自分が楽しいこと」というのをすごく大事にしていたんですね。「子どもを愉快に過ごさせるために、親である自分をすべて犠牲にする」というのではなくて、「親である自分が楽しくないと、子どもも楽しくない」「自分が楽しいから、いっしょにいる土も楽しいはずだ」みたいな考えが、たぶんすごく彼女の原点にあった。

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