小学生で「死」こそ最大の不幸と悟っていた
子供を持つこと、お墓を持つこと、家族に看取られて死ぬことは、死後も多くの人が自分の本を読んでくれること、超有名人になり自分の銅像が立てられること、自分の記念館が建てられること……等々に劣らず、むなしいことです。私が「孤独」も「不幸」も「失敗」も恐れなかったのは、「死」を恐れたこととの引き換えだとの実感があります。「死」に比べれば、あとのすべての不幸は何ということはない、私は小学生の頃からそう思って、不幸を(独特な意味で)「克服」してきました。そして、だんだん、経験を積み身をもって本当にそうだなあと実感する頃(40歳を超える頃でしょうか)、孤独も不幸も失敗もどんどん薄らいでいきました。不思議なことに、シンから何も期待しなくなると、望んでいなかった「この世の幸福」が次々と手に入ってきたのです。
最後にかたちだけですみませんが、相談者に一言。私は、自分が死ぬかぎり幸福になるはずがない(幸福になる資格はない)と思い込み、あえて幸福を求めることをせず、その代わりに「本当のこと」がわかればいい(その結果、不幸になってもいい)と願って「哲学」に沈潜しました。私にとって「死」は無性に恐ろしかったからこそ、それから目を逸らさないで、それのみを見つめる生き方をしようと思った。それが「哲学」というわけです。すなわち、私は最も不幸な生き方をしようと思った。そして、もうそろそろ人生を終える〈今〉になってみると、これ以外の生き方はできなかった、これは、ある意味で(自分の意図に逆らって)幸福なのかもしれないなあ、と苦笑している自分を見出します。あっ、また自分のことをしゃべってしまった。では終わります。
参考図書は、『孤独について』(文春新書、文庫)と『不幸論』(PHP新書)は前にも挙げました。これらにあえて付け加えれば、『生きにくい』(角川文庫)でしょうか。
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