AIで本当に人間の仕事はなくなるのか? アダム・スミスが予見できなかった未来

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生産要素投入量1単位当たりの生産量を、そのものの生産性といい、その増加率を生産性上昇率という。(中略)エコノミスト、新聞などが誤って使っている場合が多いので、その内容を厳密に定義する必要がある。いま投下労働量をl 時間とし、それによって生産された生産物をqとすると、労働生産性はq/lであり、労働当たりの物的生産性である。したがって、生産性の比較は、工場内の同じ工程をとって比較する以外ない。たとえば、乗用車の組立工程を日米間で見ると、1 人1 時間当たり、もっとも効率のよい工場同士で、日本1 に対して、米国0.35であり、塗装工程で、最頻価日本1、米国0.5(いずれも1981年)である。しかし、通常エコノミストや新聞が用いる生産性は付加価値生産性で、価格をp、製品当たり原材料費をuとすると(p−u)q/lである。したがって、価格の高い米国の自動車産業が、物的生産性q/lは小さくても、付加価値生産性が高くなることがあり、日本は生産性が低くなる可能性がある。

ここで覚えてもらいたい言葉は、同じ生産性でも、「物的生産性」と「付加価値生産性」と2種類あるということ。そして、正しき意味での生産性――それは、スミスが使っていたproductivity――は物的生産性でしかなく、付加価値生産性は誤用だということである。

スミスが考えた経済成長論

ここで、財(必需品と利便品)を生産する第1次、第2次産業における(物的)生産性の上昇と、スミスが非生産的とみたサービス業の関係について考えてみよう。第1次産業、第2次産業での生産性の飛躍的な増大のおかげで、これらの産業で生産された産品に対して、人びとの需要がある程度満たされるようになったらどうなるだろうか。

いま、ロビンソン・クルーソーとフライデーのふたりがいる社会を考えてみる。クルーソーは小麦を作っていて、フライデーは牛を飼っているとする。この社会が小麦と牛からなる生産物、すなわち『国富論』の中で定義された「国の富」を増やすためには、クルーソーは今年生産した小麦を全部食べてしまったらダメである。来年のために、種として麦芽を残していなければならない。フライデーも同様に牛を全部食べたらダメである。スミスは、そうした来年の生産のために今年の消費を我慢した分を貯蓄と呼んでいた。そして貯蓄を殖やせば来年の生産高は高まる。

これが、スミスが考えていた資本蓄積論、つまりは経済成長論であった。しかしここで、小麦作りと飼育の技術が高まりすぎて、ふたりで必要となる小麦と牛の消費が飽和したと想定してみよう。

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