伝説の「高速スライダー」男、伊藤智仁の足跡 ヤクルト一筋の人生25年、知られざる物語

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前年のドラフト前には「10年に1人の逸材、松井秀喜を!」と推すスカウト陣に対して、「10年に1人ならほかにもいるだろう。ならばピッチャーを獲ってほしい」と、逆らってまで、強硬に「伊藤指名」にこだわった。

ドラフト会議では、広島、オリックスとの競合の末に交渉権を引き当てた。野村の伊藤に対する期待は大きかった。そして、その実力は野村の想像以上だった。百戦錬磨の名将が「長いプロ野球人生において、一、二を争うスライダーの持ち主」と感嘆するほどの潜在能力を誇る逸材に興奮しないはずがなかった。

あの松井秀喜を抑えて、新人王を獲得

指揮官の見立て通り、期待のゴールデンルーキーは見事な活躍を披露する。体調不良で開幕を二軍で迎えたものの、4月20日にはプロ初登板で初勝利を記録すると、その後は目覚ましい活躍を続けた。特に6月は5試合に先発。49回2/3を投げて、その右腕からは実に694球も投じられていた。女房役の古田敦也が当時を述懐する。

「彼の高速スライダーは本当によく曲がりました。ほかの投手と違ってトモの場合は明らかに腕の振りが違いました。大魔神・佐々木(主浩)や野茂(英雄)の場合は頭の上でパンと手首を返してからひじが落ちてくる。でも、トモの場合は打者の手元に近づいているのに、まだ投げない。イチ、ニ、サンの後にさらにニュッとひと伸びがある。これはかなり打ちづらいですよ」

古田が「直角に曲がる」と称した高速スライダーは、瞬く間にセ・リーグ、いや日本球界の注目の的となった。中日ドラゴンズの落合博満や立浪和義、広島東洋カープの前田智徳ら各チームの主力打者が手も足も出ない。圧倒的存在感をたたえたまま、伊藤智仁はマウンド上に仁王立ちしていた。しかし、登板過多の代償がすぐに訪れる。7月4日の巨人戦でも137球を投じた伊藤は、この日の試合中に右ひじを負傷。残りのシーズンを棒に振ることとなった。伊藤本人が当時を振り返る。

「アマチュア時代にひじを故障したことはなかったので不安はあったけど、“すぐに治るやろ”と、シーズン後半の復帰に向けてリハビリに励んでいました」

結局、この年の復帰はかなわなかったものの、シーズン序盤の大切な時期に7勝2敗、防御率は0・91という成績を残し、伊藤はチームの日本一に貢献した。さらに、この驚異的な記録が評価され、新人王に輝いた。あの松井秀喜を抑えての受賞だった。実働はわずか3カ月弱でありながら、前半戦に見せた鮮烈な閃光は見る者の胸に強烈に焼きついていたのだ。

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