ゲームは、やりすぎると現実を侵食してくる 英文学教授がゲームから学んだ大切なこと
人生を振り返ってみると、いつもその傍らにはゲームがあった。
プレイヤーの目の前に展開するゲームプログラムは誰にとっても同じものだが、ゲームがもたらす最終生産物は、プレイヤー各々にとって異なる「固有の体験」だ。僕の「初代ポケモン」と、誰かの「初代ポケモン」の思い出は大きく異なる。なにしろ、僕にとってのポケモンは、一緒に分担しながらポケモンを捕まえて、バグ技を共有して喜んだ友人たちの存在なくして語れない。
ゲームはやりすぎると現実を侵食してくる。4つ同じ色の物が並んでいたら消えないかなと思うし、『GRAVITY DAZE』をやれば町中を飛び回る自分の姿をイメージし、『アサシンクリード』シリーズをやれば建物をどうやってよじ登ったらいいかを考え始めるようになる。本書『ゲームライフ』は、そんなゲームと共に生き、実生活が侵食された人間の人生を綴った回顧録である。
ゲームを批評する本ではないし、ゲームについての内容説明はあるもののゲームをレビューするのが目的の本でもない。ただただ著者の人生の中で、ゲームがどんな場所を占めていたのか。ゲームから何を学び、そこでどれほどの学びと救いを得たのかが淡々と綴られていく。僕がプレイしたことのあるゲームも出て来るが、その体験はやはり僕とはまったく別のものだ。
それはゲームが、このようにして語られる意味でもある。
どんな人生なのか
著者であるマイケル・W・クーンはシカゴ生まれの英文学教授。7歳で『Suspended: A Cryogenic Nightmare』というコマンド入力式のアドベンチャーに出会ったことで人生が一変し、『サスペンデッド』の中では何度も死ねてしまうために真面目に「一生で何回死ねるの?」と聞くような子どもになっていった。『パックマン』なら3回だが、人生は普通1回である。
今でこそみんながゲームをやるような時代だが、1980年代当時にパソコンゲームをやるような人間はそうとう珍しいタイプであった。まだパソコンゲーム自体黎明期である。今となっては想像することすら難しいが、コマンドを「入力」して、何らかの「結果」が返ってくる、それだけのことにセンス・オブ・ワンダーを感じる時代だった。
『初めて母親を見た瞬間を覚えている人間はいない。でも、コンピュータゲームが普及しつつあった当時7歳ぐらいだったぼくたちの世代の人間は、初めて方法(ルビ:メソッド)に従って何かをした時のことを覚えている。』
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