ロヒンギャ問題、スーチー氏批判は筋違いだ 国際的な批判は状況を悪化させかねない

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一方、ロヒンギャという民族名称は、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。その意味では戦後生まれた新しい民族集団とみなすことも可能である。ただ、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国の時代に、多数派の仏教徒と共に、ムスリムも一定数居住していたことが史実として知られ、そこに起源を求めることも十分できる。

アラカン王国に住むムスリムは、捕虜として連れてこられた人たちの子孫や傭兵たちで、王宮で役職に就く者もいた。アラカン王国は1785年、ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略によって滅亡する。その後、1826年に第一次イギリス―ビルマ(英緬)戦争での敗北を経て、ラカインが英国の植民地と化すと、以後ベンガル側から大量のムスリムがこの地に入り、数世代を経て定住するに至った。

いつ、なぜ「ロヒンギャ」と名乗るようになったのか

アジア・太平洋戦争期(1941-45)には、イギリス勢力を追放しビルマを占領した日本軍がラカインで仏教徒の一部を武装化し、ラカイン奪還を目指す英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化した。両者の戦闘は日英の代理戦争とは別次元と化し、ムスリムと仏教徒が殺し合う「宗教戦争」となり、ラカインにおける両教徒の対立を取り返しのつかない地点に至らせた。

大戦後、1948年1月にビルマは英国から独立する。しかし、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が及ばない地域だった。東パキスタンで食糧不足に苦しむベンガル人がラカインに大量に流入し、彼らのなかには武装反乱に走る者もいた。ラカイン北西部に住むムスリムがロヒンギャとして名乗りを挙げたのはまさにこの時期だった。

こうした歴史を整理すると、アラカン王国期からのムスリム居住者を基盤に、英領期のベンガルからの流入移民がその上に重なり、さらに旧東パキスタンからの新規流入移民の層が形成され、「三重の層」から成るムスリムがこの地域に堆積したといえる(1971年の印パ戦争時の流入移民を含めれば「四重の層」ともみなせる)。彼らが実際にどのように混ざりあい、いかなる理由で「ロヒンギャ」を名乗るようになったのかについては、いまだ明らかではない。

さて、今回の難民流出に伴うロヒンギャの苦境に関し、国際社会はメディアを含め、アウンサンスーチー国家顧問を非難している。しかし、彼女1人に責任を負わせることは前向きな結果を生まず、逆に事態を一層悪化させてしまう可能性が高いことに気付くべきである。

スーチー国家顧問は「大統領の上に立つ」国家顧問として、2016年4月からミャンマーを率いている。しかし、彼女には軍(国防)と警察(国内治安)と国境問題に対する指揮権がない。現行憲法がその3つの領域について大統領ではなく軍によるコントロールを認めているためである。

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