公文書で読み解く「首都大改造計画」の全貌 首都高や新幹線はこう形作られていった
「オリンピックを絶対に成功させる」という気持ち
昭和39(1964)年に開催された、東京オリンピック。この大会のために、東京のまちの大改造が行われたとよく言われる。たしかに大改造の目玉である首都高速道路の建設、オリンピック道路に指定された都内幹線道路の整備、東海道新幹線の開業など、いずれもオリンピック直前に完成している。首都高速は外国人を迎える羽田空港から都心までの1号線こそ同年8月2日の供用開始だが、2号・3号線の一部の供用開始は同年10月1日、東海道新幹線も10月1日開業である。オリンピックの開会式が10月10日なので、いずれも滑り込みセーフで間に合っての完成だった。
だがこれらの計画の多くは、オリンピックと関係なく、あえて言えばもっと切実な状況から生まれたものだった。東京オリンピックは、敗戦からの完全復興と経済大国へ向かう日本の姿を世界中に示すことが、大目標となっていた。首都東京の交通インフラが貧弱であるわけにはいかず、そのための大改造だったが、そうした国家の体面を保つこと以上に、都民にとって切羽詰まったことから計画された点とは何だったのだろうか。
背景には自動車の激増がある。東京における自動車保有台数は、昭和25
(1950)年6万5000台だったのが、同30(1955)年には24万台、同35(1960)年には60万台と10年間で約10倍も増えている。都心の交差点では渋滞が発生し、さまざまな交通調査からの推計で、昭和40年には都心の主要交差点での交通量は限界に達して、都心はまったくの交通麻痺状態になるとの推計結果が公表された。当時「昭和40年問題」として、何度も新聞を賑わせている。
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