多くの人が知らない「諦める」の本当の意味 悩み、苦しみを減らす「仏教の智恵」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
諦めるとは、本来ネガティブなことではありません(写真:JK14 / PIXTA)
数多くのベストセラーで知られ、老若男女問わず読者の多い名取芳彦和尚。名取氏は、東京都江戸川区にある元結不動 密蔵院の住職であり、写仏・読経の会や法話を主宰する傍ら、聲明ライブ、講演なども精力的にこなし、地域に密着したユニークな和尚さんとして知られる。
近著『あきらめる練習』もある芳彦和尚に、怒り、妬み、悲しみ、こだわり、後悔などの感情に苛まれる現代人が心の重荷を軽くするために、積極的に「諦める」ことの意義を語ってもらった。

諦めるという言葉は、本来悪い意味ではない

日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつもありません。

〔つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと〕

さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉です。

諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。

ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりで使われるようになってしまいました。もったいないと思います。

仏教では「諦」と「明」の合体した「あきらめ」こそ、いつでも、どんなことが起こっても、心が苦しまず、おだやかでいられる境地(悟り)に至るために大切だとします。

私たちが「苦しい」「つらい」「嫌だ」「つまらない」など、マイナスの感情を抱くのは、ことごとく自分の都合通りにならない時です。こうした状況を仏教で「苦」と言います 。

では、どうすれば自分の都合を“諦め”られるのか。

次ページ手段と目的を考えてみる
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事