原田泳幸の懐刀は希代のマックバカ OB・藤本孝博に聞く(上)

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外食の巨人もいよいよ伸び悩みの局面を迎えている。
業績が苦戦するマクドナルドに「おまえら、もっとがんばらなあかん」と檄を飛ばす人がいる。藤本孝博氏だ。マクドナルドに24年間勤め、営業本部長やプレミアムローストコーヒーの無料配布などマーケティングキャンペーンを担当した。その恰幅のよい体格と、面倒見のよさから「マクドナルドのボス」(写真)と呼ばれてきた。
マクドナルドといえば「人を大切にするから、外食産業ナンバーワンだ」と断言するOBがいる一方で、24時間営業店や店長の未払い残業代の問題で労働環境には悪い印象があり、両極端のイメージで語られてきた。はたしてどちらが本当のマクドナルドを映しているのか。藤本氏はどうマクドナルドに育てられ、マックバカになったのか。話を聞いた。 

――入社したのは1986年、マクドナルドはどういう状況だったのでしょうか。

まだまだ伸び盛りという感じですね。朝マックを始めたばかりでした。世間はと言えば、バブル真っただ中でしたが、僕は365日働き通しだったので、あまりバブルな感じは知りません。

入社して4年半は一番下っ端のセカンドアシスタントマネージャーという職種でした。そもそも“セカンド”というくらいですから、その上にはファーストがいます。当時は、優秀な奴は3年で店長になると言われていたことからすると大きく出遅れてしまいました。

出世が遅れたのは、僕の性格なんだと思います。大阪の商売人の家に生まれたということもあり、人見知りせずズケズケと意見を言います。だから、上司のことを「アホだ」と思ったら正面からけんかをするから、評価も非常に低くなってしまいました。ようやく店長になれたのが、1990年のことでした。その後、大阪、奈良、京都など近畿地方を中心に店長を経験してきました。

小型店でも大型店と同じ売上高を!

1990年代ののマクドナルドはサテライト戦略を掲げていて、小型店を年間300店舗以上出店していました。そこで売って売って売りまくりました。

たとえば、ひらかたパークという遊園地内にあるサテライト店で言うと、単月の売上高が2800万円。通常の大きさの店舗の売上高が単月で3000万円でしたから破格の売上高だと思っています。

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