(第49回)6章 「ロスチャイルド」という課題 5

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)

「見切りのつけ方」

 アメリカのジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーはナチス・ドイツの時代に特派員としてドイツにいた。その間の見聞をつづった『ベルリン日記 一九三四‐一九四〇』(筑摩書房)にロスチャイルドのことが出てくる。
 一九三七年の年の瀬、シャイラーはウィーンに移った。ヒトラーが武力でもってオーストリア併合を迫っていたころで、弱小国政府の対応をルポするためだった。たまたま見つけた居心地のいいアパートが「ロスチャイルド邸(パレス)」のとなりだった。そしてウィーン・ロスチャイルドの当主ルイがオーストリア・ナチ党の強圧に抵抗したあげく、身代金にもひとしい法外な出国税を課せられてアメリカに逃れる顛末(「ロスチャイルド物語・三十一回」)に立ち会った。
接収されたロスチャイルドのライヒェナウ宮殿(一九三三年)
 オーストリア併合が宣せられた直後のこと。シャイラーがアパートにもどるとSS隊員が玄関に立ちはだかって通さない。上司にかけ合うため、アパートにつながる庭師の家に向かった。
「そこはロスチャイルドがこの一年実際の住いにしていた家だ」
 入りかけて、あやうくSS将校たちと正面衝突しかけた。
「彼らは地下室から銀器その他の略奪品を運びあげているところだった」
 一人は金の額縁つきの絵、もう一人は両脇からこぼれるほど銀の食器をかかえている。現場を見られても、バツの悪そうな顔さえしない。  一九四六年、ルイ・ロスチャイルドは変わりはてた祖国にもどってきた。首都は瓦礫(がれき)の山。アメリカ・ソ連・フランス・イギリス四ヵ国軍による分割統治のもとにあった。その間のウィーンについては、映画「第三の男」に描かれているとおりである。
 ルイ・ロスチャイルドが何よりも驚いたのは、街よりも人の変わりようだった。ルイが亡命を決意したころ、ユダヤ人は虫けら同然の扱いだった。シャイラーの日記にもあるが、「幾団ものユダヤ人が、監視の突撃隊員たちに嘲られ、まわりを囲む群衆に野次られながら」、四つん這いになって歩道の掃除をさせられていた。
 ウィーン市当局も市民たちも、こともなげに、そのような状況を見すごしにした。あるいは見ないふりをした。
「ロスチャイルド、ウィーンに帰還」
 オーストリアの新聞に大見出しで報じられると、政界、経済界があげて歓迎を表明した。戦後復興の「希望の星」とみなされた。さっそくロスチャイルド資金をあてこんで投資話がもちこまれた。
 旧友、遠い親戚、かつての従業員らがつぎつぎとやってくる。助力をたのんだり、無心をしたり、仲介役を買って出たり、「とっておき情報」とやらをささやいたり--。その人々の大半は、ルイがゲシュタポに拘束されたとき、指一本として動かさなかった。いかなる励ましの声もかけず、「大金持ユダヤ人の一件」を冷やかにながめていた。
 オーストリア・ロスチャイルドはルイの代でとだえる。ロンドンやパリとはちがって、ウィーンはロスチャイルドの復活を図らなかった。オーストリア政府が便宜を約束し、オーストリア経済界が全面的協力を約束したが、ルイもアルフォンスもオイゲーンもウィーンにもどってこなかった。
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