指導法やコンクールの審査基準が「曖昧で主観的」
【前編】では、既吹奏楽経験者が、コンクールの優勝者を明確に当てることができなかったという実験を参照しつつ、吹奏楽作品には、誰もが知るところとなるような、人間の進化を涵養する芸術的栄養に溢れる作品が多いとは言えない点を指摘した。
加えて、実はもう1つ、現代日本吹奏楽特有の問題がある。
吹奏楽関係者にはつとに知られているが、ここ十数年、コンクール課題曲の劣化は目に余るものがある。これに関して指揮者の下野竜也氏は、管楽器専門月刊誌『パイパーズ461号』(2023年3月休刊)で、「近年の課題曲は酷いものが多すぎる。一般公募で良いものはほとんど見当たらない」と強く語っている。

北海道教育大学音楽文化専攻合奏研究室 21世紀現代吹奏楽レパートリープロデューサー
東京藝術大学卒業後、メリーランド大学大学院にて音楽修士号取得。イーストマン音楽院博士課程進学。デンマーク政府奨学生として王立音楽アカデミーに留学。レオナルド・ファルコーニ・ユーフォニアム・コンクール第1位受賞。ヤマハ吹奏楽団常任指揮者、北海道教育大学准教授。前日本管楽芸術学会副会長
(写真は本人提供)
また、吹奏楽作曲家として知られる鈴木英史氏においても、「音楽的深みを見出せる、音楽的課題を投げかける委嘱作品が敬遠される傾向にある」と、吹奏楽専門雑誌『バンドジャーナル』の担当コラムの中で危機感を募らせている。さらに作曲家の伊藤康英氏は自身のSNSで課題曲の質の低さについて詳しく言及し、「明らかな和声の誤り、全体の調性の構造のアンバランス、メロディと対旋律とのぶつかり方の明らかなミスがある」と指摘している。
吹奏楽コンクールの看板たる課題曲にこれだけの批判が集まることを考えれば、三摩氏の研究結果が表すように、吹奏楽人の音楽感性に“不確実さ”がにじみ出てしまっていることにもうなずけるのではないだろうか。
そしてこの点にこそ、部活動の地域展開で新しい価値を探求するための、「吹奏楽の本質」「担保すべき質」が隠れていると私は考える。
それは音楽としての基礎教育である。地域展開には、吹奏楽レパートリー(曲のリスト)の“質”を見極める目を養う「音楽基礎教育」の充実が必要不可欠である、と確信している。
吹奏楽におけるさまざまな指導法において、物理的そして、音楽的に普遍的な事実に裏打ちされた指導は、極めて少ない。例えば、合奏指導中はしばしば「音程やリズムを合わせなさい」と言われるが、これらについて「なぜ合わせなければいけないのか」「合わせることによってどういった効果が生まれるのか」を論理的に説明した記述は、これまで指導書などで目にしたことはほとんどない。
本来の意味は、音程やリズムを合わせて合奏音の響きの濁りを減少させることで、そこから感じ取られる色や温度などのイマジネーションの推移と、作曲技法における和声の推移が結びつけられるという、非常に重要な目的があるにもかかわらず、だ。
また吹奏楽コンクールにおいても、その審査方法は主観的なものに終始している。近年では改善されたが、数年前まで吹奏楽コンクール全国大会の審査は、1団体が課題曲と自由曲を1曲ずつ演奏するにもかかわらず、2曲を総合した「A・B・C」の3段階で評価するというものであった。この方式は2024年に変更されたが、それでも課題曲・自由曲をそれぞれ「A・B・C」で評価するというもので、根本的な変化はなかった。
たしかに、音楽そのものを評価することがたやすくないことは、多くの人が認識している。しかしながら、全日本吹奏楽連盟が明示している「審査の観点」で説明されているものは、文字通りあくまで“観点”でしかなく、何をもって評価の高低がなされるべきかについては書かれていないのだ。

審査基準の細目が設定されていないということは、このコンクール自体が目指す「吹奏楽が進むべき方向性」すなわち「プリンシプル」が存在しないということでもある。それは「多様性」とは言いがたいものではないだろうか。これも、三摩論によって詳らかになった“吹奏楽審査の曖昧さ”の要因に挙げられるだろう。
吹奏楽部における「音楽基礎教育」の欠落が招くもの
他方、しばしば吹奏楽部の最も重要な役割は社会教育である、と言われる。それが重要な要素の1つであることに疑問はないが、吹奏楽を通して社会教育を施す根幹は、本来「音楽基礎教育」にあるはずだ。
音楽演奏は、音楽理論やソルフェージュ(楽譜の読み方を中心とした訓練)、音響、運動生理学(呼吸法や体幹の意識など)など、さまざまな要素の連携によって成り立っていると考えられる。しかし、その指導メソードが、論理性と演奏感性の境界域を埋められる論拠をもって作られた例は、こと吹奏楽においては極めて少ない。多数流布されている合奏指導教本においても、感覚的な説明に終始しているものが多く、客観性に欠けていると言わざるをえない。
何より、音符(言語にとっての文字、数学にとっての数字)の読み方や、楽譜の読み方(言語にとっての文法、数学にとっての公式・定理)という、音楽教育上で最も重要な基本要素が、吹奏楽教育において整理されているとは言いがたい状況にある。一般団体も含め、現在全国で1万以上の演奏団体が活動しているにもかかわらず、こういった基礎的理論の充実度は極めて浅い。いまだに先人たちの経験則の伝搬を主としているのが現状なのだ。
吹奏楽部における人間教育・社会教育は、本来ならこういった音楽的基礎教育が展開された上に成り立つべきだった。しかしこのような状況であるから、作品の良し悪しを見極める審美眼が育たず、質的に問題のある吹奏楽作品が席巻するに至っていると考えることも、あながち不自然ではないのではないだろうか。
三摩氏の研究は、こういった吹奏楽にとって不都合な現実を予期せず炙り出す結果となった。逆に言えば、これまで日本の吹奏楽は、「音楽基礎教育」の地盤を固めずに発展してきたため、音楽的審美眼の涵養も不十分で、歪になってしまったとも考えられる。
だからこそ、部活動の地域展開が本格化し、学校吹奏楽の再編に伴って“ハード面”(経済基盤や運営母体)の検討が急ピッチで進められようとしている今、本当に急務なのは、吹奏楽における音楽の基礎教育メソードの再構築だと考えられる。基礎あっての応用であるから、基礎教育メソード構築なしに吹奏楽活動の新たな価値観構築はありえないだろう。
吹奏楽の地域展開は、単なる運営主体の変更ではない。吹奏楽はこれを機に、社会縮小と文化濃縮に対応しつつ、これまでの伝統を基により高度な芸術性を生み出し、未来の日本文化の礎の1つとなるべきだ。前回に続き、ここで再び申し上げる。私たち大人こそが今、再勉強し、子どもたちの文化を守り、そして発展させなければならないのである。
(注記のない写真:KATE.M / PIXTA)


