地域展開で必要な、「若者の文化を守る」ための再構築

今年に入ってから、主に高校の吹奏楽部において新入部員数が40〜50人と大きく回復してきた話を耳にするようになった。これは、コロナ禍を境に“厳しい部活動”と認識され部員が減少していた状況からの好転とも考えられる。

一方で、首都圏などの都市部では人口減少による社会の縮小を実感することは少ないが、他地域はすでに、部活動の運営すら非常に厳しい状況に直面している。そんな中で、吹奏楽部員数の回復は喜ばしい出来事だが、この勢いを長く継続できるかどうかはまた別問題だ。楽観的に捉えたい気持ちもあるが、現実を慎重に見据えることも大切である。

以下は、総務省が運営している「統計ダッシュボード」からの人口分布図、いわゆる「人口ピラミッド」である。上は2025年現在のもの、下は首都圏など大都市の人口がピークを迎えると予測される2040年のものだ。

2025年の人口ピラミッド
(出所)総務省「統計ダッシュボード」
2040年の人口ピラミッド
(出所)総務省「統計ダッシュボード」

同資料によれば、10~19歳の人口は、2025年から2040年の間に、推計1057万人から795万人まで大きく減少する見込みだ。こうした社会状況において、部活動が現在と同じ活動を維持していくのはなかなか難しいだろう。

ゲーテの言葉に「Im Herzen der Wahrheit liegt die wahre Ideale.(現実を直視する心に真の理想が生まれる)」とある。この言葉が示すように、まずは現実を受け止めることから、新たな可能性を見いだしていく必要があるのではないだろうか。

渡郶謙一
渡郶謙一(わたなべ・けんいち)
北海道教育大学音楽文化専攻合奏研究室 21世紀現代吹奏楽レパートリープロデューサー
東京藝術大学卒業後、メリーランド大学大学院にて音楽修士号取得。イーストマン音楽院博士課程進学。デンマーク政府奨学生として王立音楽アカデミーに留学。レオナルド・ファルコーニ・ユーフォニアム・コンクール第1位受賞。ヤマハ吹奏楽団常任指揮者、北海道教育大学准教授。前日本管楽芸術学会副会長
(写真は本人提供)

前回の記事で述べたように、部活動の地域移行(現在は「地域展開」という、より発展的な表現に改められている)の本質は、「働き方改革」に代表される、顧問教員など指導者への待遇改善だけではない。

むしろ、少子化および社会の縮小がもたらすさまざまな活動の衰退から、若者たちの文化を守り、新しい活動の枠組みや価値の再構築を図ることこそが最重要課題である。なぜなら、それが将来の社会における文化や思想の基盤となるからだ。

とくに、現在の社会を築き支えてきた自負を持つ世代、すなわち高度経済成長期やバブル絶頂期を経験した世代(私もその一人である)にとって、縮小する社会の中でこれまでの文化を守り、その本質を継承していく方法を見いだすことは、決して容易ではない。しかしながら私たち大人には、次世代を担う若者たちのために行動を起こす責務があるはずだ。

「吹奏楽部の本質・定義」が議論されない地域展開

各地域で、部活動の地域展開に関する具体的な計画や実施スケジュールが明確になってきた地域が増えつつある。部活動地域展開を主導する「地域文化芸術活動ワーキンググループ」は最終会議を開催し、次年度から6年間を「改革実行期間」と位置付けた。そのうえで、国による費用負担の在り方や地域クラブの定義などを明確に示す必要性を提言した。

本ワーキンググループの主要メンバーであり、前身の部活動地域移行化会議で座長を務めた北山敦康・静岡大学名誉教授は最終会議において、「広い意味での地域づくりを進めるために、全国の自治体におかれましては、この改革を教育委員会だけでなく、首長部局等で総合的な政策課題として取り組んでいただきたい」と語っている。(北山敦康氏FBタイムライン@5月17日分からの引用)

また阿部俊子文部科学大臣は5月20日の閣議後記者会見において、公立中学校の部活動改革における重要課題の1つである民間クラブでの活動費の保護者負担について言及した。具体的には、今年夏頃をメドに、国として金額の目安を提示する意向を示し、「速やかに検討を進める」と表明した。

これまでスポーツ庁および文化庁からの方針表明はあったものの、文部科学省という省庁レベル、さらには大臣自身からの明確な発言となったことで、部活動の地域展開に向けた改革の進展が一層加速することは確実といえる。

一方で、吹奏楽部の地域展開において、いまだに誰も言及せず置き去りにしている、明確化されていない重要な要素がある。

先述の「地域文化芸術活動ワーキンググループ」においても「地域展開での活動の質の担保」という指摘がなされているが、この数年の地域移行化準備期間において、「吹奏楽部の本質・定義」を体系的に論じた議論は見られなかった。

この吹奏楽部の本質に関する議論が不十分であるがゆえに、地域展開の具体的な計画立案が困難となっている。その結果、検討内容が以下のような“ハード面”の整備にとどまっているのが現状である

・運営のための経済基盤の確立
・運営母体の設置
・具体的な団体形態の決定

だが、吹奏楽部の地域展開によって見直されるべき要素は、もっと本質的、すなわち音楽に関わることではないだろうか。

吹奏楽作品では、音楽的な“感性”が育たない

ここに興味深い研究がある。慶應義塾大学大学院博士課程で音楽神経科学の研究を行っている三摩朋弘氏の「視覚優位性効果は評価者の音楽経験と視聴覚統合の相互作用に依存する:日本の吹奏楽コンクール映像を用いた検証」という論文だ。これは、音楽演奏の評価は“耳で聞く音よりも視覚が優劣に影響する”という、数年前にシンガポールで発表されセンセーションを呼んだChia-Jung Tsay氏の「Sight over sound in the judgment of music performance」という研究実験結果を吹奏楽コンクールに応用した、極めて独創的な研究である。

Tsay氏の実証実験は、あるピアノの国際コンクールの上位3名の演奏から、結果を知らないプロアマ混合100人以上に、以下の情報で優勝者を当てさせるというものである。

(A)演奏映像と音源両方を聴かせる
(B)音源のみ聴かせる
(C)音源は聞かせず演奏映像のみを見せる

 

事前のアンケート等の調査では、評価のためには「音が重要であるはず」という回答が8割を超えていた。しかし実験結果では、(A)および(B)の情報では、優勝者の予想が3名の演奏者に比較的平均的にバラけてしまい、(C)映像のみの情報の場合に、優勝者を当てる確率が50%前後と高くなるという結果が出たのである。

この実験では3名から優勝者を予想するため、33.3%程度がチャンスレベル(それぞれが等確率で選択される場合の比率)となることからも、(C)映像のみの場合の正答率の高さは注目に値すると言える。

そして三摩氏が吹奏楽コンクールに応用した実験の結果でも、(C)映像のみで、コンクール優勝者に最も多くの票が集まったのである。

慶應義塾大学大学院博士課程 音楽神経科学 三摩朋弘氏の「視覚優位性効果は評価者の音楽経験と視聴覚統合の相互作用に依存する:日本の吹奏楽コンクール映像を用いた検証」
全実験参加者の評価結果。(C) 映像のみの正答率が、(A)演奏と音源・(B)音源のみよりも上回っている。
(出所:Samma T, Honda K, Fujii S (2025) Sight-over-sound effect depends on interaction between evaluators’ musical experience and auditory-visual integration: An examination using Japanese brass band competition recordings. PLoS One 20(4): e0321442.より(リンク)。図は三摩氏提供)

このことは何を示しているのだろう。「音」が演奏の良し悪しを決定する最重要要素ではなかったのか。

三摩氏は、この実験を、被験者を「非吹奏楽経験者」と「既吹奏楽経験者」に分けて再び行っている。その結果、非経験者はTsay氏の研究と同様に、目立ってコンクール優勝者に得票が集まったのが(C)映像のみであったのに対し、既経験者は、驚くことに(A)(B)(C)がほぼ同じ得票になったのである。つまり、既経験者の得票ではコンクール勝者が明確化できなかった、ということである。

非吹奏楽経験者および既吹奏楽経験者の評価実験結果
非吹奏楽経験者および既吹奏楽経験者の評価実験結果。非吹奏楽経験者においては(c)映像のみの正答率が音源を含む条件よりも有意に上回っている。一方で既吹奏楽経験者においては条件間での統計的な差異は見られない
(出所:Samma T, Honda K, Fujii S (2025) Sight-over-sound effect depends on interaction between evaluators’ musical experience and auditory-visual integration: An examination using Japanese brass band competition recordings. PLoS One 20(4): e0321442.より(リンク)。図は三摩氏提供)

このような結果になってしまった極論的な要因が1つ推測できる。それは、「吹奏楽作品では、良し悪しを見極める耳、すなわち“感性”が育たない、もしくは鈍るかもしれない」ということである。非吹奏楽経験者と既吹奏楽経験者を分ける最も明確な要因は、「吹奏楽作品に触れたことがあるかないか」だ。だとすれば、この極論にも一定のたしからしさが存在するはずである。吹奏楽作品の質に問題がある可能性が高い、ということになる。

そもそも吹奏楽作品は、吹奏楽従事者以外にほとんど知られていない、という事実がある。例えば、クラシック音楽に詳しくない人でも、ベートーヴェンの『運命』や『第九』を知る人はおそらく多い。モーツァルトの『トルコ行進曲』や、ドビュッシーの『月の光』もよく知られているだろう。古今の歴史的名曲は、時代のトレンドの趨勢に淘汰されることなく、時代や国々の独自の文化の壁を乗り越えて、普遍的芸術美をもって生き残っている。だが吹奏楽作品には、そのような高い芸術性を含有した、人間の進化を涵養する芸術的栄養にあふれるものが多くあるとは、悲しくも言いがたい。

さて、ここまで、吹奏楽部の本質に関する議論が不十分であるがゆえに、地域展開の具体的な計画立案が困難となっていること、そして、そもそも「吹奏楽部の本質」を語るには、吹奏楽作品が音楽的な問題をはらんでいることを論じてきた。

【後編】では、吹奏楽コンクールにおける課題曲の劣化や審査基準の問題、そして指導法の曖昧さなどを指摘しつつ、吹奏楽部の地域展開で「音楽的な基礎教育」の再構築が必要な理由について述べていく。

(注記のない写真:AYA / PIXTA)