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「砲弾が飛び交う極限の状況で育ち…」朝ドラ「風、薫る」で注目"鹿鳴館の華"と呼ばれた大山捨松の生涯

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ドレスを着た女性
鹿鳴館の華と呼ばれた大山捨松の生涯とは(写真:SEKIGUCCI / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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だが、11年間の留学を終えて明治15(1882)年に帰国すると、捨松は厳しい現実に直面する。留学の目的だった北海道開拓を担っていた官庁はすでに廃止されており、女子の高等教育機関を作りたいという夢も周囲の反対に阻まれることになる。

「最先端の知識と語学力を持っていても、それを生かす場が日本にはない」

そんなふうに絶望したときに舞い込んできたのが、陸軍卿・大山巌からの縁談だった。

英語・フランス語・ドイツ語を駆使し、社交ダンスもこなせる捨松は、外交が夜会や舞踏会を軸に進んでいた当時の政界にとって、まさに求められる人材だったといってよいだろう。

しかし、会津の山川家からすれば、鶴ヶ城を砲撃した薩摩の軍人との縁組などもってのほか。兄・浩は猛反対するが、西郷従道から説得される。浩が渋々、本人の意思を問うと、捨松はこう答えたという。

「お人柄を知らぬうちはお返事できません」

捨松は当時としては異例のデートを提案し、それが実現するも、薩摩弁と会津弁ではコミュニケーションがとりづらく、当初は会話が全く盛り上がらなかった。

そこで、フランス語に切り替えてみたところ、会話が弾んだという、微笑ましいエピソードが残っている。3カ月の交際を経て捨松は結婚を決意し、明治16(1883)年に大山家へ嫁いだ。

「鹿鳴館の華」から社会事業の先駆者へ

捨松は、鹿鳴館の社交の場で際立つ存在だった。複数の言語を操りながら外国人と対等に会話し、ダンスも所作も洗練されている――。

いつしか彼女は「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。 だが、捨松の本質は、華やかな舞台の上にあったわけではなかった。

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【公共のために尽くした生涯】

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