皮肉なことに、のちに夫となる大山巌は、新政府軍の砲兵隊長として会津の地にいた。同じ戦場にいた二人が後に夫婦となるのだから、人生とはわからないものである。
敗戦後、会津23万石は改易となり、陸奥斗南藩3万石の不毛の地に封じられる。 捨松は函館のクリスチャンである沢辺琢磨のもとに里子に出されたのちに、 その縁でフランス人家庭に預けられることになった。
苦難のなかで、期せずして異文化と早くから接触したことが、捨松の人生を形作ることになる。
11歳での渡米「捨松」の名に込められた親の思い
明治4年(1871)、新政府が女子留学生を募集すると、山川家は将来を見据え、わずか11歳だった捨松を、その一人として送り出す決断をした。
「捨てたつもりで帰りを待つ」
このとき家族はそんな覚悟を込めて「さき」から「捨松」へと改名させたという。
5人の女子留学生のうち年長の2人は早々に帰国している。捨松と津田梅子、永井繁子の3人はアメリカ文化に溶け込んでいった。
3人はそれぞれ別の家庭に寄宿しながらも深い絆を結び、生涯にわたって互いを支え合う間柄となった。
捨松は、牧師でコネティカット州ニューヘイブンに住むレオナード・ベーコン夫妻のもとで、高校卒業まで暮らした。その後は、ヴァッサー大学で寮生活を送りながら、ラテン語から哲学、数学から物理学、歴史、動物学まで幅広い分野を学んでいる。
成績は一貫して優秀だったようだ。2年生のときにはクラス委員長を務め、卒業式では代表に選ばれてスピーチを行っている。捨松は、アメリカの大学を卒業した初めての日本人女性となった。
学習意欲が旺盛な捨松は、コネティカット看護婦養成学校でも学び、看護婦資格まで取得している。
朝ドラ「風、薫る」の16回放送では、体調不良で嘔吐した男の子に対して、捨松がテキパキと応急処置を行う場面があった。ドラマでの捨松は、口をゆすいだ水の廃棄方法や、水の飲ませ方など専門的な知識で現場を指揮した。実際の捨松も、そんな看護スキルを持っていたのである。
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【帰国後の挫折と、仇敵からの求婚】
