1657年の明暦の大火により江戸市中に甚大な被害を受け、幕府は江戸の街を整備した。深川では河川が開削され、それに沿って町場がつくられた。森下4、5丁目あたりには、大名の下屋敷が置かれた。
明治時代に入ると、江東区では屋敷跡地などに多数の工場が建てられていく。小名木川では定期的な蒸気船が運行され、高橋付近は船着き場が作られたことにより人が集まっていた。
高橋商店街は当時「夜店通り」と呼ばれており、毎日露店が出て賑わいを見せた。近くに劇場や映画館、寄席などの娯楽施設があり、それらを楽しんだ客が店に寄ることから繁盛したのだ。
近くの簡易宿泊所に泊まっていた日雇い労働者や職人なども買い物に来ていた。現在の森下3丁目付近は、大正・昭和を通じて100軒以上の簡易宿泊所が存在するドヤ街だったのだ。
大正の関東大震災と昭和の東京大空襲
大正時代になり、江東区は1923年の関東大震災で甚大な被害を受けた。やがて復興し再び工場が増えていったが、多くの工場が統制のもとで軍需工場となったため、1945年の東京大空襲でも被害を受けることとなった。東京大空襲によって江東区域は見渡す限りの焼け野原となり、多数の犠牲者を出した。
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【都営新宿線と大江戸線の開通】
