専門性にとどまらない能力を培う博士課程教育
グローバル化、情報化、企業間の競争激化など、日本企業を取り巻く事業環境の変化は加速している。今春、早稲田大学の「リーディング理工学博士プログラム」が、初めて社会に送り出す第一期生の博士号取得者の一人、宇田川瑛弘さんの採用を内定した三井化学・研究開発本部R&D管理部長の青木伸一氏は「技術者としての専門性は大前提ですが、企業の現場では、コミュニケーション力や俯瞰力といった専門性以外の能力の重要性も増しています」と、環境変化に伴って、求められる能力値のハードルが上がっていることを指摘する。
研究開発本部 R&D管理部長
青木 伸一
三井化学も、顧客企業との付き合い方が大きく変わりつつあるという。素材メーカーである同社は、顧客から要求されたスペックに合わせて素材を開発し、供給してきた。だが、近年は、より最終製品に近い川下領域の企業や従来とは異なる分野に顧客が拡大。その結果、これまで硬度や弾性などの数値で伝えられたスペックの指定の仕方が「もっと肌ざわりを良く」とか「フィット感を出して欲しい」といった抽象的・感覚的な言葉に変わってきた。青木氏は「従来、顧客と技術者とは数値特性のやりとりが中心でしたが、今は相手ユーザーの立場やニーズを洞察することもより重要になっています」と言う。
新しいニーズをつかみ、顧客を広げるためには、専門用語など共通のバックグラウンドを持たない専門領域外の人とコミュニケーションをとり、協働できる能力が不可欠だ。だが、従来の博士課程教育では、専門領域を深めることにフォーカスするあまり、自身の専門外への関心が薄くなる傾向があった。そうした博士人材と、企業が求める人材像とのギャップが、博士採用に産業界があまり積極的にならない理由の一つとされてきた。
青木氏は「最近の学生は、非常によく勉強をするので高い専門性は備えていますが、加速する社会変化への対応を急ぐ企業側からの要求レベルも高くなっています。特に博士号取得者の場合、修士より3年長く大学に在籍しているので、さらに期待のハードルが上がるところがあると思います」と背景を分析する。
こうした現実を踏まえ、文部科学省は、グローバル化時代に対応し、研究以外のフィールドでも活躍できるリーダーの育成、社会的課題の解決やイノベーションのけん引に貢献できる人材育成を想定した「博士課程教育リーディングプログラム」の支援事業を開始。その一つとして、2012年に早稲田大学先進理工学研究科のプログラムが採択された。さまざまな課題が複雑に絡み合うエネルギーなど世界的課題の解決に挑むため、より深く広い専門知識、多角的な視野、グローバルに通用するコミュニケーション力を身に付けた新しい博士人材の育成を掲げる。
「専門・俯瞰・進取力」を磨きリーダーの基盤を構築
社会・企業をリードしていくことが期待される、新しいタイプの博士に必要な力として、早稲田のプログラムは、「専門力」「俯瞰力」「進取力」の三つの基盤を総合的に習得できるように編成されている。
「専門力」は、将来世代のエネルギー科学技術を物理・化学・電気電子・生命科学等の横断的学問領域であるエネルギーの理工学という軸で学び、それを学生自身の専門分野に結びつけることで、複合的な研究にも柔軟に対応できる力を身に付ける。
「俯瞰力」は、ジャーナリズムコースや、価値創造プロセスのマネジメントを学ぶスーパー・テクノロジー・オフィサーコースなどの文理融合、産業界有識者の講義など産学連携を通じ、社会と自身の研究の関係を見つめ、つなぐ能力を養う。
「進取力」は、海外研究機関との共同研究や企業インターンシップ(各3カ月、必修科目)を通じ、多様な人々と信頼関係を築きながらチームでの作業を体験。イノベーションに欠かせない異分野の人との協働を推進する力を培う。
こうした幅広い基盤は、社会の中で環境の変化に対応しながら長く活躍することが期待される人材にとっては重要な力だ。実際、企業の研究部門に採用された技術者が、その一生を研究者として過ごせるとは限らない。年齢を経るとともに、組織の上層部で活躍されることが期待されるようになり、上司として自分の手を動かさずに、周りの人を上手に使うことも求められる。
青木氏は「組織をリードするセンスを身に付けるには、インターンシップなど多彩な経験を積むことによる人間的な成長が大切です」と、三つの力に象徴されるリーディングプログラムの多彩な履修内容を評価。特に「一歩引いて自分が取り組んでいる研究の意義や、これから向かうべき方向を大局的に考えることができる」(青木氏)俯瞰力や主体性の重要性を強調する。
5年一貫の多忙な道にあえて挑む覚悟に期待
自身の軸として専門分野に深い知識を持つ一方、周辺領域に幅広い知見を持つT型人材の育成がリーディングプログラムの目的と考える青木氏は「リーディングプログラムで学んだ学生が、これから社会に出て、どんな活躍を見せてくれるのか、高い関心を持って見ています」と話す。
採用面接にも関わっている青木氏は入社が内定している早稲田のリーディング理工学博士プログラム1期生の宇田川さんについて「メールでのやりとりや面接を通じて、コミュニケーション力や自身の力で道を切り拓こうというモチベーションが高く、専門性のみならず幅広い能力を備える人材だと感じました」と振り返る。昨年末にプログラムの後輩学生を連れて意見交流のために三井化学を訪問した際の企画力や行動力も評価する。
青木氏が特にリーディングプログラム履修者に関心を持つ理由が、気持ちや意志の部分だ。リーディングプログラムは、難関である博士号取得に向けた専門分野の論文と並行して、グローバルリーダーとしての能力を養うための授業やインターンシップにも多くの時間を割かなければならない。文科省の支援事業は最大7年に限定されているが、早稲田大は、2014年に5年一貫制の先進理工学専攻を新設して、プログラムを継続的に運用する仕組みを整えた。
しかも5年一貫制にしたことで、中退でも通常は前期2年間の修士課程を修了すれば得られるはずの修士号は取得できない。青木氏は「それでもあえて大変な道を選ぶモチベーションの高さ、覚悟を含めた強い意志が、リーディングプログラムの学生にはあるはずで、そこには大いに期待しています」とエールを送る。